<プロフィール>


<監督になるまで>


 1931年3月19日、東京・王子滝野川に生まれる。父は映画館主で、家の近所では大都映画が時代劇の撮影をよく行っていた。子どもの頃から映画を浴びるように見て育つが、彼の人生に大きな影響を与えた最初の人物は、兄・渡辺優であった。兄の優は東大で美学を専攻する秀才で、将来は小説か映画の道に進みたいと親しい友人には語っていたという。しかし、1941年、22才の若さで結核で他界。渡辺は遺された映画雑誌やシナリオの草稿などを読むうち、兄の遺志を引き継ぐかのように表現の道を志すようになる。
 1950年、早稲田大学文学部演劇科に入学。入学後まもなく八田元夫演出研究所に入り、58年まで通う。この間に八田元夫から学んだことは映画演出の基礎となっているという。大映のニューフェイス、TVドラマの俳優、シナリオライター、助監督など、さまざまな経験を経て自分の可能性を模索した後に、1965年、『あばずれ』で監督デビューする。


<渡辺節>

 渡辺護が今まで撮ってきた映画の本数は当人にも正確な数が分からないという。だが、門前忍という監督名で撮った作品や、急病で倒れた監督の代わりに撮った映画などを含めると、二百本は超えるだろうと言われている。監督した映画のジャンルも、撮らなかったのはSFとホラーだけというくらい多様である。
 だが、彼の映画には、「渡辺節」と呼ばれる独特の演出スタイルがある。それが最もよくあらわれているのが『(秘)湯の町 夜のひとで』のラストだろう。ヤクザの罠にはまり、一日に何人もの客に体を売るはめになった雀(大月麗子)は、やつれた姿でふらふらと河原に現れる。すると、どこからか愛する久生(吉田純)の名調子の活弁が聞こえてくる。雀はその久生の幻の声にふっと微笑むと、冷たい川の流れに顔を突っこむようにして無惨な死を迎える……。
 過去への郷愁と現実の過酷さ――この二つが対比して描かれるときに「渡辺節」と呼ばれる演出スタイルは冴えわたる。おそらく、この演出スタイルと、監督デビュー作の『あばずれ』以後、渡辺護がくりかえし少女を主人公にした映画を撮っていることには密接なつながりがあるだろう。渡辺の映画では、少女たちは純真無垢な存在のままではいられない。新作『片目だけの恋』に至るまで一貫して、「少女」は過去への郷愁と現実の過酷さがせめぎあう表現の現場として、渡辺護の創作力を刺激し続けていると言える。


<ピンク映画と渡辺護>

 渡辺護にとって、ピンク映画は助監督をしているうちに偶然に入りこんでしまった世界でしかなかった。だが、草創期のピンク映画界は、兄・優が遺した映画雑誌などを通じて知り、憧れ続けてきた映画初期・サイレント期の自由で活気に満ちた空気を追体験できる場でもあった。その意味で渡辺とピンク映画の結びつきは必然であったと言える。
 1970年、渡辺護は大和屋竺の脚本で、『おんな地獄唄 尺八弁天』と『(秘)湯の町 夜のひとで』を撮る。前者は少年時代から熱狂的に愛してきた時代劇を渡辺なりのスタイルで復活させたもの、後者はサイレント期のカツドウ屋への憧れをブルーフィルムの世界に託して描いたものであった。
 この二本は「映画についての映画」とでもいうべき性格を持ち、渡辺のフィルモグラフィーの中で一つのピークとなっている。だが、ここで注目したいのは、翌71年に『ニッポンセックス縦断 東日本篇』を撮り、ヒットさせていることである。この作品は大久保清の連続暴行殺人事件を扱ったものだが、撮影に入る段階ではまだ事件の全貌が明るみに出ていなかったという。そのため、まとまったシナリオもないままに撮影は開始されたが、この作品を撮ったことの意味を、渡辺は後にふりかえってこう語っている。「あれは感覚的にまとめたが、映画ってどんなことがあってもフィルムがつながるんだなあという貴重な体験をしたね」(ミリオン出版『ドキュメント成人映画』1978年)
 大和屋の脚本でフィクションの本質を究めるような作品を発表した後に、限りなくドキュメンタリーに近い実録ものを撮り、映画の別の可能性を探る――これとよく似た動きは十三年後にもくりかえされる。1977年、渡辺護は高橋伴明の脚本で『谷ナオミ 縛る!』を撮り、ヒットさせる。以後の数年間、渡辺は緊縛ものを撮り続け、彼の代表作の一本である『少女を縛る!』(78)をはじめとして、『聖処女縛り』(79)、『少女縄化粧』(79)、『激撮! 日本の緊縛』(80)、『暴行性犯罪史 処刑』(82)といった秀作を世に送り出し、70年前後の時期と並ぶピークを迎える。そして、このときもまた、緊縛ものでドラマの激しさを徹底的に追求した末に、主役を演じたいという松田優作の申し出を断って実録犯罪ものの秀作『連続殺人鬼 冷血』(84)を撮るのである。
 ちなみに、ロマンポルノがスタートしたのは1971年、アダルトビデオが台頭してきたのは80年代の初めであった。ピンク映画という枠に危機が迫ってくるのを予知するかのように、創作力が高揚期に向かうというのは、映画作家のあり方としてなかなか興味深いタイプと言える。


<ピンク映画以後>

 アダルトビデオが隆盛期に入った80年代半ばから、渡辺はピンク映画界から離れていく。以後、渡辺はオリジナルビデオやカラオケビデオを撮りながら、自分の力を発揮できる表現の場を模索する時期に入る。今回、映画化された『片目だけの恋』もこの模索期の95〜96年頃にシナリオが完成していたものである。
 1993年には沖島勲の脚本で『紅蓮華』を監督。もとはある女性社長の自伝の映画化という企画であったが、渡辺が最も強い関心を抱いたのは女性社長の夫であった。戦後日本に対して違和感を感じ続け、過去への郷愁と現実の過酷さの間でもがき苦しむ夫のあり方は、渡辺の創作力を刺激してやまない存在であった。夫役を演じた役所広司の好演もあって、『紅蓮華』は渡辺護の代表作というだけでなく、90年代に撮られた日本映画の傑作の一本となっている。


<若い才能の発見と擁護>

 渡辺護の映画人としての生き方を見ていくうえで忘れてはならないのは、若い才能を発見し、擁護し続けてきたことである。渡辺は、荒井晴彦(『制服の娼婦』『痴漢と女高生』(ともに74))、小水一男(『激撮! 日本の緊縛』『暴行性犯罪史 処刑』)、高橋伴明(『少女を縛る!』『聖処女縛り』)らに脚本の執筆を依頼し、表現の機会を提供し続けてきた。また、東てる美、美保純、可愛かずみらのデビュー作を撮り、彼女たちを魅力的なアイドルとして世に送り出している。
 塩田明彦の監督デビュー作『どこまでもいこう』の試写の際、映画が終わった直後に拍手が起きたが、このときに真っ先に拍手したのは渡辺護であったという。それにしても、新しい才能を発見し、擁護するという役割を渡辺が今もなお果たし続けているのは何故だろうか。そこには夭折した兄・渡辺優の存在が関係しているのだろうか。
 2003年、渡辺は小田切理紗という新人に出会い、彼女の中に可能性を感じとった。新作『片目だけの恋』は、若い才能の発見と擁護という点から見ても、きわめて純度の高い渡辺護らしい作品だと言える。

<フィルモグラフィー>
渡辺護のフィルモグラフィーはこちらの二つをご覧下さい。
 渡辺護 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0297430.htm
 門前忍 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0361530.htm