西原さんの思い出(追悼 西原儀一監督)

(この追悼文は日本映画監督協会会報「映画監督」2009年第9号に掲載されたものです)

 葵映画で撮ってくれませんか、とカメラマンの池田清二に頼まれたのは、昭和四十五年だったと思う。
 その頃、西原さんは体をこわしていて、葵映画の監督を他のひとにまかせていた。けれども、西原さんは映画の出来に満足してなかったらしい。それで、池田は西原さんを助けようとして、私に監督することを頼んできたのだ。
 私が葵映画の事務所に行くと、西原さんは脚本にあれこれ注文をつけてきた。西原さんの言っていることはプロデューサーというより、監督の意見だった。自分だったらこう撮るという感覚で、細かいところまで脚本の直しを要求してきたのだ。
 冗談じゃない。撮ってくれという会社は他にもあるんだ。おれは降りるよ。打ち合わせのあと、私は池田にそう言った。だが、池田にとって、西原儀一は映画のABCを教えてくれた師匠だ。そんなこと言わないで撮って下さい、と説得され、私はしぶしぶ脚本を直して映画を撮ることにした。
 しかし、自分が納得していない脚本で映画が撮れるわけなどないのだ。西原さんは自分の流儀を頑固に貫くひとだったが、私もそうだった。私たちは似た者同士だったのかもしれないが、映画に対する考えはまるで違っていた。西原さんは丸根賛太郎や志村敏夫の助監督について学んだことを生真面目に守り通していた。けれども、私はメジャーの撮影所みたいな撮り方をしていてはピンク映画は勝てないと考えていた。ピンク映画にはピンク映画の撮り方があると思っていたのだ。
 西原さんが言うことはおれには合わないからな、と言って、私は現場で脚本をもとに戻した。池田はそんな私を見てハラハラしていた。西原さんが怒るとどうなるかを知っていた池田は眠れぬ日が続いたにちがいない。
 初号試写のあと、私は西原さんと口をきかなかった。すると、西原さんは池田を呼び寄せて何ごとか話しだした。
 そのとき、西原さんは「わしゃ、体をこわしてよう飲めんけど、これで頼むわ、池ちゃん」と言ってお金を渡したのだという。西原さんは完成した『売春暴行白書』を見て、その出来に納得したらしい。「先生、喜んでた」と話す池田も嬉しそうだった。
 その後、私は葵映画で『女高生性教育講座』と『女体調教師』の二本を撮ったが、西原さんとの関係は決して良好といえるようなものではなかった。だが、西原さんが亡くなった今となっては、対立したことも懐かしい思い出だ。
 西原さんは私と同じように頑固なひとだった。しかし、自分とちがうものであっても、いいものはいい、と認める素直さを持っていたひとだったように思う。