晩年の試行錯誤(井川耕一郎)

(この文章は『映画芸術』2014年春号(第447号)に掲載されたものです)

 学生時代に渡辺護さんの映画はよく見ていたけれども、個人的なつきあいは大和屋竺シナリオ集をつくるために取材で会った一九九三年からになる。用事もないのに遊びに行くようになったのは九六年くらいからか。渡辺さんの家はどこか懐かしく居心地がよかった。
 撮影現場を初めて見たのはたしか九八年。私の脚本で渡辺さんが春画を題材にした時代劇AVを撮ったときのことだ。「おれは職人監督だからさ、AVなんて鼻毛ぬきながらでも撮れる」などと撮影前には言っていたのだが、実際はまるでちがった。最初から最後までいらだち、怒鳴りまくっている。事前に考えてきた演出やカット割りを捨てて、もっといい表現はないかと悪あがきするのである。この人は二百本以上の映画をこんなふうに撮ってきたのか……と驚き呆れてしまったものだ。
 その現場を見ているとき、おや?と思ったことがある。「そうか、この映画はこうやって撮ればいいんだ……」と渡辺さんがぼそっと呟いたのだ。それは女がかがんで池を見つめるカットのときだった。水辺にひとがたたずむカットは、渡辺さんの映画に何度も出てくるお得意のもののはずだ。なのに、なぜあんなことを呟いたのだろう……。
 たぶん、あの頃の渡辺さんには迷いがあったのだと思う。月一本のペースで撮っていた七〇年代、渡辺さんには「おれ流に映画を撮れば、かならず売れる商品になる」という自信と実績があった。けれども、『紅蓮華』(93)以後、内心、「おれ流の表現」と「売れる商品」の結びつきが失われてしまった、と感じていたのではないか。
 ひさしぶりのピンク映画、『若妻快楽レッスン 虜』(01)や『義母の秘密 息子愛撫』(02)の頃、渡辺さんは「売れる商品を目指せば、かならずおれ流の映画になる」と自分に言い聞かせて撮っていたのではないかと思う。たしかに『若妻快楽レッスン 虜』は今でも改題再公開されているくらいだから、商品としてきちんと成立しているのだろう。けれども、渡辺さん自身が納得できる「おれ流の表現」になっていたかどうか。切通理作さんによるインタビュー(『ニャン2倶楽部Z』二〇〇八年八月号)の中で、渡辺さんはこう語っている――「前に久しぶりでやった時は正直ナメてかかってた。自分の中にあるピンクのやり方の中で撮っていただけで『思い』がない」
 『片目だけの恋』(04)のとき、渡辺さんは必死になって主演女優を探していた。そしてある夜、電話がかかってきた。「井川、見つけたよ。小田切理紗って子なんだけど、黙っておれをじーっと見つめてるんだ。戦いを挑む目なんだよ。彼女と一緒に仕事をするのが楽しみだ」 あとで小田切さんに聞いてみると、面接のときはものすごく緊張して声も出なかったとのこと。きっと、渡辺さんが小田切理紗の目の中に見たものは、もう一人の自分だったのだろう。そのもう一人の渡辺護は渡辺さんにこんなことを言って挑発したのではないか――ピンクの巨匠なんて言われて、お前、本当にうれしいか。新しいお前の表現を目指せ。そうすればきっと売れる商品になる。
 渡辺さんは本気で変わろうとしていた(試みが成功したかどうかの判定は、未来の明晰な批評眼にゆだねたい)。それは『喪服の未亡人 ほしいの…』(08)を撮ったあとの発言にもはっきり出ている。「いろんなひととの出会いの中で、おれはピンク映画って何だ?と探りながら撮ってきたんだよ。だから、昔、おれが撮ったピンク映画のタイトルをあげて、あの頃みたいなやつをまた撮って下さいよ、と言われても困るわけだ。おれは昔には戻れないし、昔、成功したものをまたやったって面白くないと思う。今回、おれはこれからのピンクはこれでどうだ!って気持ちで映画を撮った。ピンクの新しい基準をつくるつもりで撮ったわけです」(「渡辺護、『喪服の未亡人 ほしいの…』を語る」
 『喪服の未亡人 ほしいの…』のあと、渡辺さんはすぐに次回作の準備をしようと言いだした。私は『色道四十八手 たからぶね』という脚本を書いた。撮影は二〇〇九年の秋――の予定だったが、さまざまな事情から製作延期になってしまった。「すまん、井川」と謝る渡辺さんに私は言った。「じゃあ、渡辺さんがいて、カメラがあれば撮れるものをやりましょう。渡辺さんが自分の人生を語る自伝的ドキュメンタリーってのはどうですか?」
 それは、しょんぼりしている渡辺さんを見て、思いつきで言ったことでしかなかった。私はちょっとした気晴らしというか暇つぶしになればいいくらいにしか思っていなかったのだ。けれども、渡辺さんは身ぶり手ぶりを交えて一生懸命語った。その姿はピンク映画史をもう一度生き直そうとしているかのように見えた。
 全十部・八時間という我ながら呆れてしまうような長さのドキュメンタリーがもうじき完成するという頃(二〇一三年十月)、ぴんくりんくの太田耕一さんとPGの林田義行さんが渡辺家を訪れて言ったのだった。「ピンク五〇周年を記念する映画として、『たからぶね』を撮りませんか」 渡辺さんはすぐに答えた。「やるよ。絶対に面白いものにする」
 ところが、十一月二日に渡辺さんは倒れてしまった。検査の結果、大腸ガンであることが判明。十一月十七日、病院に見舞いに行ったとき、渡辺さんは言った。「おれはガンだから撮れない。井川、お前がやれよ」 そうして、十二月二十四日に渡辺さんは亡くなった。
 『色道四十八手 たからぶね』を撮っている間、私は渡辺さんの死を半分くらい忘れていた。次々と出てくる問題を解決するのに追われていたからだ。けれども、完成したとたん、ああ……と頭をかかえて嘆きたい気持ちになった。あんなに何度も渡辺さんの家に遊びに行ったのに、なぜ肝心なことを尋ねなかったのだろう、と。
 今、私が渡辺さんに訊きたいことは、晩年の試行錯誤のことだ。きっと、渡辺さんは「無様な晩年だったな」と苦笑するにちがいない。けれども、私はこう言うだろう。「そうですね、実に無様でした。でも、そんな渡辺さんが好きでしたよ。今も尊敬しています」