『聖処女縛り』について(河野真理江)

 左翼運動家の青年を追いつめた特高の小西(鶴岡八郎)は、刃物を振りかざしてはむかう男に向かって二発の銃弾を浴びせて殺す。だが、死んだその男は小西の愛人である園(岡尚美)の妹・綾(日野繭子)の恋人だった。その夜、愛人宅でしどけない姿でいる小西は、復讐を目論む綾によって命を襲われるも、なんなくそれを逃れて逆に彼女を腕ずくでねじふせる。小西はその後、園には綾を殺人未遂の容疑で取り調べると言って警察へ連行するとみせかけて、実際には病に臥せた妻と暮らす自宅に監禁すると、処女を奪ったあげく、縄で縛り上げて蹂躙の限りを尽くす。小西は綾を弄ぶうちに、彼女がその顔に苦痛ではなく悦びの表情を浮かべているのに気づいて驚喜する――。
 
 性愛のいろはも知らない処女が冷徹なサディストに犯され、いたぶられていくうちに肉体の快感に目覚める、という展開は、「緊縛もの」のピンク映画における典型的なプロットの一つだろう。しかし数多くあるそうした物語のなかで『聖処女縛り』がとりわけ興味深く思えるのは、そうした表向きの物語のその奥に、ある種の倒錯を見ることができるからだ。つまり、小西が縛るたびに縛られる綾の虜になっていき、縛られる綾のほうはむしろ小西から逃れやすくなっていくような、物語の筋とは逆の見え方が、どこかに潜在しているような印象がある。このような印象は、あるいは観る側の錯覚に過ぎないのかもしれない。しかし、硬く締まった細縄、黒いピストル、震える包丁の刃先、女の赤い長襦袢と白い肉といった「緊縛もの」には付き物のイメージでさえ、『聖処女縛り』においては、あたかも観客の深読みを誘うかのようにいたずらな転義を綾なしている。たとえば縄はもはや単なる性戯の道具ではなく、「縛るもの」と「縛られるもの」に分たれた男女の緊張した権力と支配の関係に、見えざるせめぎあいを生じさせる手綱であるかのようだ。縄を手に女を縛る男がその実自らを縛っているのではないかというように、映っているものとは別のものを見たように思ってしまう、あるいはそう思いたくなる。
 このようなイメージの倒錯は、この映画が単にすぐれた「緊縛もの」であるばかりなく、すぐれたメロドラマでもあるということを感じさせる。すくなくとも、ここで絡み合っている登場人物の関係性、その描き出し方は、文字通りけっして一筋縄ではない。
 言うまでもなく、『聖処女縛り』のこのような映画的な精巧さは俳優やスタッフ陣の高い技巧的水準に支えられている。なかでも一見無表情にもみえる茫洋とした表情のなかに女の初々しい恍惚を表現する日野繭子と、「旦那さまぁ……」というせつなくもあざとい声色に世馴れた女の生々しい肉体を露わにする岡尚美の対比はじつに素晴らしく、劇中の姉妹を魅力的に仕立てている。鶴岡八郎演じる特高の小西は、傷ついた女を慰めることで許されようとする男の弱さと裏がえった自虐心とを表現して、完全無欠のサディストとは決して言えない複雑微妙な男性像を造形しているのが面白い。また脇役ながら、左翼青年を演じる若き日の下元史朗の見事な死に顔はあまりにも忘れがたいものがある。
 鈴木志郎のキャメラは、無駄のない明晰なフレーミングで、正攻法の濡れ場はもちろん、きわどい緊縛のポーズの押さえや、シュールなエロティシズムの描写にも首尾よく対応し、つねに趣向を凝らした余念のない画面をつくりあげている。冒頭の捕物の場面では、手前に汽車が通り過ぎるショットの活劇的魅力にも思わず目を見張らされることだろう。さらに東映の任侠映画や実録路線で活躍した田中修の編集が生み出す古典的で躍動的なリズムは、一時間という短い尺から本寸法の映画の雰囲気を醸し出させているのだから流石というほかない。
 そしてなによりも、SM性愛をエクスプロイテーション的に猥褻化するのではなく、行為の露骨さのなかに感情の機微を透かしてみせ、登場人物たちの折衝的な関係性を描き出したというところに、渡辺護の見事な手腕が冴えている。この演出をみてしまうと、『聖処女縛り』がつくられた1979年、渡辺がすでにピンク映画の巨匠であったと断言せずにはいられない。といっても、ここでいう演出力は単に監督個人の卓抜した美学的な感性に還元できるものでは決してない。むしろわたしたちは、ピンク映画というきわめて限られた時間と予算のなかで、こんなにも映画的に高度な作品を成り立たせていることに、渡辺の演出家としての真の力量を認めるべきだろう。そしてまさにこの点において、渡辺護はやはり「ピンク映画の巨匠」と呼ぶにふさわしい映画監督である。