『婦女暴行事件 不起訴』について(井川耕一郎)

今にも雨が降りそうな空とうねる海をバックに、突堤の先に若者が二人しゃがみこんでいる。それを遠くからとらえていたカメラがパンすると、走ってくる一台の車が見える。車は空き地に止まり、中で男と女(日野繭子)がセックスを始めるのだが、スタッフ・キャストの名前に邪魔されてよく見えない。「監督 渡辺護」の字が消えたあとも、曇り空がうっすら映った車の窓ごしに交わりを見るしかないのが何とももどかしい――と思っていると、カメラは愛撫されてあえぐ日野繭子に思いきり寄る。するとやや遅れて、窓ガラスにへばりつくようにしてニヤニヤ笑っている冒頭の若者二人の顔が視界に入ってくる……。
ここまでが約6分。セリフがまったくない長めのシーンだ。文字に書き起こしてみると、どうってことないオープニングのように見えるかもしれない。だが、実際に見た印象はちがう。観客は知らぬ間にもっと間近でセックスを見たいと思うようになっている。ところが、その願いがかなえられた瞬間、まるで鏡を見るかのように同じような欲望を持っている若者二人の顔と出くわし、はっとすることになるのだ。観客をたくみに引き寄せながら、ふいに突き放す――これがドキュメント・タッチのこの作品の特徴だと言えるだろうか。
いや、その逆のこともこの作品では起きているだろう。時折、挿入される雨の横須賀のカットがそうだ(渡辺護は「おぼえているのは雨だね。横須賀のドブ板通りなんかで撮ったんだけど、雨にたたられてね。とにかく大変な撮影だった」と言っていた)。荒涼とした横須賀は見る者を突き放す。だが、突き放された観客は、にもかかわらず、その光景に引き寄せられ見入ってしまう。

純粋な悪意となってひとを弄ぼうとする者たちを小水一男は何度か登場させてきた。渡辺護のために書いた脚本だと、女たちを次々と覚醒剤中毒にしていく男を描いた『セックスドキュメント ぶち込みたい』(79)や、二人組の強盗がある一家を徹底的に陵辱する『緊縛縄姉妹』(82)がそうだし、監督作品では『ラビットセックス 女子学生集団暴行事件』(80)がそうだ。『婦女暴行事件 不起訴』(79)もこの系列の一本と言える。
『婦女暴行事件 不起訴』の三人組の若者はレイプをくりかえす。だが、彼らのやっていることははたしてレイプとして起訴できるものなのかどうか。一人が女性をナンパし、セックスまでしたところに、残りの二人が乗り込んできて交わり、写真を撮る。三人組の犯行の手口は強姦と和姦の境界線上にあり、おそらく彼らは女を犯すこと以上に自分たちが思いついたその手口に酔っているのだろう。
それにしても、なぜ彼らはレイプをくりかえすのか。単に暇を持て余しているからなのか。三人組は犯行後、体をくっつけるようにして雑魚寝し、身を寄せて一本のビニール傘の下に入る。そんな彼らの姿を見ていると、雨に奪われた体温を女を襲うことで取り戻そうとしているのではないかという考えがふと過ぎる(ひょっとして、冒頭、突堤の先にいた二人は体温が下がって動けなくなっていたのだろうか)。すると途端に三人組が人間ではなく、虫けらのように見えてくる。そういえば、彼らには役割分担はあっても性格と呼べるようなものはない。徹底的に突き放した描き方になっているのだった。

三人組の描き方と対照的なのは女たちの描き方だ。渡辺は、からみさえあればピンク映画になる、とは考えていなかった。ピンク映画は女優の映画でなければいけない、と考えていたはずだ。渡辺の遺作『喪服の未亡人 ほしいの…』(08)に出演した倖田李梨はブログにこう書いている。「渡辺護監督は女優それぞれを大切に味付けして魅力的に撮ってくださる方なんです。台本通りだったら、私はきっと今も語られることもなかったでしょうけど、未だにあの時のことを皆さんが言って下さるという事は護さん演出のおかげだと思ってます。見せ場をキチンと作って下さった事に感謝しています」
倖田李梨が言っていることは『婦女暴行事件 不起訴』にも当てはまる。目薬入りの酒で意識不明となったところを犯されたOLは、翌朝目ざめると、若者たちに脱がした服を持ってくるように命じ、何事もなかったかのように出勤する。少女は自分をナンパした若者に自宅まで送ってほしいと哀訴し、彼を引きつけたところで一生懸命考えた仕返しをしてみせる。三人組の犯行を並べただけの構成のように見えて、決して単調なドラマ展開になっていないのは、女優ひとりひとりに渡辺護と小水一男が見せ場を用意しているからだろう。

では、後半になって再登場する日野繭子のパートはどうか。ここは見るひとによって評価が分かれるところだ。日野繭子は自分をナンパした若者に対して愛を求め、二人の仲間と手を切るように訴える。たぶん、彼女のこのあり方に古くささを感じるひとがいてもおかしくはないだろう。あるいは、今まで虫けらのように描かれていた若者に向かって愛なんて言っても無理ではないか、と考えるひとがいるかもしれない。
そうした批判をある程度認めたうえで、それでも私は後半の日野繭子のパートを評価したいと思う。三人組のレイプ犯の映画としてまとめれば、すっきりした出来になっていたかもしれないのに、渡辺護は主演女優・日野繭子の映画にしようと必死になっている。その奮闘ぶりを評価したいと思う。だがそれにしても、なぜ渡辺護はこんなにも悪戦苦闘しているのだろう。
『婦女暴行事件 不起訴』を見直しているときに、ふと思い出したのは曽根中生『女高生 天使のはらわた』(78)だった。『不起訴』とほぼ同時期の作品で、どちらにも三人組のレイプ犯が出てくる。この『女高生 天使のはらわた』について、曽根中生は次のようなことを言っている(梅林敏彦『シネマドランカー 荒野を走る監督たち』北宋社・80年)――「あれはねえ、怖かったんです。「天使のはらわた」は、ロマン・ポルノじゃないですからね。ロマン・ポルノというのは、女が主人公で性がテーマになるわけだけど、あれは男3人が主人公だし、性をテーマにしてないしね」
これと同じ問題に『不起訴』の頃の渡辺護も直面していたのではないか。今までのピンク映画の撮り方が次第に通用しなくなっている……という危機をうっすら感じていたのではないだろうか。では、一体、この時期にピンク映画やロマン・ポルノにどんな変化が生じていたのだろう? これは作品解説の枠を超えるテーマだし、よく分からない部分が多すぎる。しかし、その変化を探るうえでも、『婦女暴行事件 不起訴』は見るべき価値のある映画だと言える。