『婦女暴行事件 不起訴』について(高橋洋)

 この映画を見るうちに次第にグラグラと心が騒ぐのは、男三人がなしている輪姦がはたして犯罪なのか、実は加害者にとっても被害者にとっても、作る側からも見る側からも、曖昧な一線の上でなされているという感覚で、それが今日の視点から見てどうジャッジされるかといったことではなく、むしろ時代を越えて“事が起こる”実相を目の当たりにしている、そうした視線を共有してしまうことが、この映画のドキュメント性なのだと思う。
 視線の共有は、映画冒頭、窓ガラス越しに車中セックスを覗く男の視線に、喘いでいる女がいつ気づくかというサスペンスの形で仕掛けられている。これは怖いショットで、観客は喘いでいる女の顔を映し出す画面に明らかに視線が発生してしまっていることを直感する。観客が通常身を委ねる安全圏(客観)からの窃視ではない、安全圏を踏み越えた相手に気づかれる視線の発生なのである。気づいた女はセックスを中断出来ないまま、手だけをむなしく窓ガラスに這わせ、男の視線を遮ろうとする。問題なのは自分が罠にはめられたことではなく、視線だということが強調される。むろん男たちはそこにこそつけ込むわけだが。
 観客と地続きの曖昧な領域の上に発生する犯罪の感触を、脚本の小水ガイラは後に『箱の中の女』でさらに展開させ、渡辺護は勝田清孝事件を扱った『連続殺人鬼 冷血』にも導入した、と思える。視線の発生は、先に挙げた車中セックスのシーンのような優れた空間演出だけによってではなく、映画全体の“断章”的な語りの構成によっても呼び込まれる。ここに強烈なエモーションを喚起するメロドラマの作り手としての渡辺護とは異なるもう一つの顔がある。『不起訴』が曖昧な領域を呼び込むのは、出来事が登場人物の誰にも寄り添うことなく、あくまで断片として示され、そこで省略された事柄が、こうとしかあり得なかった事物と事物の関連を見つめる視線をもたらすからである。マワされた女は翌朝、あっさりと出勤し、あるいは相手と恋に落ち、唐突に妊娠や性病の事実が告げられ、はたして犯罪かどうもかよく判らないまま男三人は逮捕される。観客が目の当たりにするのは、何事にもいつか止める時が来るという突き放された実相である。
 こうした語りの感触を渡辺護の映画で最初に得たのは、大久保清事件を扱った『ニッポンセックス縦断 東日本篇』だったように思う(記憶がだいぶあやふやなのだが)。容疑者の取り調べが進行する最中、まとまったシナリオがないまま撮影されたこの映画は、撮影そのものがドキュメント的で、「カットとカットの間に飛躍があるんだ。それが新鮮だった。映画ってどうやったって繋がるんだな、と思った」と後に渡辺護は井川耕一郎とのトークショーで語っている。
 この延長線上に『不起訴』や『冷血』は位置づけられると思うが、初の一般映画であった『冷血』がもう一つ調子が出ていないように感じられるのは、ピンク映画というフレームで成立していたリアリティが他のフレームでは成立しにくいという問題にぶち当たったからではないだろうか。それはリアリティが成立するフレームを見失った80年代以降の日本映画がずっと抱え続けている問題である。実際、『不起訴』の画面や語りをただそのまま現代のスクリーンに移植しても、リアリティの成立は難しいだろう。ひとたび成立したリアリティは時代を越えて見る者を撃つが、今日では新たなフレームによる新たな発見が必要なのである。
 ところで、大久保清や勝田清孝は、『不起訴』の男たちのように被害者と曖昧な関係を保てなかった。それ故に彼らは殺人へと至るわけだが、示される実相は、ただそれだけの違いだった、とも言える。今日、『不起訴』と『冷血』を並べて見て、覚えるのは、この足場がぐらつくような不穏な感触である。