『おんな地獄唄 尺八弁天』について(万田邦敏)

『おんな地獄唄 尺八弁天』は、同じく渡辺護が監督した『男ごろし 極悪弁天』(脚本は石森史郎)の続編なのだそうだ。そのあたりのことは、「『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ」に井川耕一郎が詳しく述べている。そこに紹介されている渡辺の発言内容も面白いし、真相に迫ろうとする井川の考察も、晩年の渡辺に献身的に寄り添った彼だけに、じつに興味をそそられる。だからここでは、ふたつの弁天映画について井川以上のことは何も語れないのだが、しかし『尺八弁天』に前作があったということで、いったんは腑に落ちたことがあったので、どうしても前作に触れないわけにはいかず、その点勘弁願いたい。
いったんは腑に落ちたことというのは、『尺八弁天』の主人公弁天の加代が犯した地獄に堕ちるほどの悪行とはいったい何だろう、ということだ。『尺八弁天』ではそこのところが具体的には描かれておらず、加代が地獄に堕ちるのはもう決まったことのようになっている。
地獄に堕ちる定めということなら、それはまるでイーストウッドの『許されざる者』のウィリアム・マニーのようなのだが、彼が犯した悪行は、かつての相棒ネッドが鮮明なイメージをともなった語りで紹介しているし、なんといってもラストの殺戮シーンは、まさに地獄の扉を開く残酷無慈悲な所行といえるだろう。しかし『尺八弁天』には、加代の悪行を具体的に示す語りも言動もない。それでこの映画に前作があると知って、ああ、そのあたりのことはそっちのほうに描かれているんだな、と思ったわけだ。しかし井川が紹介する『男ごろし 極悪弁天』の梗概を読んでみても、この疑問は解消されなかった。『極悪弁天』でも、加代の悪行は具体的には描かれていないようなのだ。いったんは腑に落ちた(つまり、結果的には腑に落ちていない)、というのはそういうことだ。
正道を踏み外し、女だてらに渡世の世界に入ったということことだけなら、地獄を呼び寄せはしないだろう。人生の転落に避けがたい何らかの事情があったとすれば、むしろ仏さまのお慈悲があっていいくらいだ。
たしかに加代は、ひとをあやめていると告白している。その手は血に染まっているとも言っている。しかし、身を売られようとしている縁もゆかりもない少女を、命を賭して助けようとするほどなのだから、加代はどちらかといえば善人なのではなかろうか。ただしかし、いくら理はこちらにあっても勝手に人を殺していいかといえば、そうは言えない。少女を救う手立てはきっとほかにもあるのだが、他人の腕をねじ上げたり、手っ取り早くドスを振り回してしまうところが極道の定めであり、おそらくその定めゆえに加代は地獄に墜ちるのだろう。そして加代が、「長生きなんてしてやるもんか」とこの世を呪って地獄に堕ちることを覚悟しながら、その一方で仏さまに慈悲を請うてもいる、その矛盾が面白い。しかもその矛盾が現れるのは、きまって加代のセックスシーンで、加代にとってセックスは堕獄(?)でもあり昇天でもあるのだ。またそこでは、極道の定めが、背中の弁天の刺青として具現化されている。だから加代の弁天とセイガクの吉祥天が重なり合い、寄り添うセックスシーンは、哀しみと孤独の溶解と同時にその自覚であり、強さと自信の回復でもあって、じつに感動的というほかない。
ところで、「定め」という言葉から、渡辺護の「定め」に連想が及ぶのは自然の成り行きだと思う。なにしろ渡辺は、200本ものピンク映画を撮った映画監督=映画渡世人なのだ。
『尺八弁天』の前作『極悪弁天』にしてからが、「緋牡丹博徒」シリーズのピンク版として企画されたというから、『尺八弁天』はそもそもの始まりから表街道を歩けない定めを背負っている。井川が紹介する渡辺のインタビューから察するに、その定めに十分自覚的であった渡辺は、しかし映画の演出においては一般映画と変わらぬオーソドックスな演出で臨んでいる。まるで表街道を大手を振って歩いているかのようだ。これは『尺八弁天』に限ったことではなく、渡辺は常に、裏街道を表街道の歩き方(演出)で歩いてしまうのだ。『尺八弁天』の脚本を大和屋竺と練りながら、伊藤大輔、マキノ雅弘、山中貞夫、加藤泰らの映画に触れずにはいられなかったという渡辺にとって、ピンクというジャンルはマイナーでも、それが映画なら、メジャーであるほかなかったのだ。そのことの矛盾が、おそらくピンク映画監督渡辺護の「定め」だったのだと思う。渡辺監督ははたしてその矛盾を、堕獄と昇天を同時に願う加代に投影していただろうか。