山本晋也論(1973年)

(この批評は『月刊成人映画』1973年5月号・6月号に掲載されたものです)

<山本晋也論>前編 とほうもないナンセンス精神

いったい、この世を風刺したい精神とはなんであろう。私はナンセンスコミックのマンガ家のなかで谷岡ヤスジの書くものを見るたびにこういう思いにとらえられる。谷岡ヤスジのマンガはただ、おかしいというのではない。二、三年前に流行した言葉を使うなら、おかしいというよりは、あまりにハレンチすぎるのである。谷岡のナンセンスコミックの世界を支えているのは破壊的な情熱なのであって、これは単なる批評的精神ではない。
批評精神というのは、たえず、既成の秩序や概念を破壊する、風刺は批評精神の一形態であり、それは笑うことによって破壊するのだ。ただ谷岡ヤスジの世界にあっては、その笑いは、むやみやたらと明るすぎるのである。彼は、はたして、まじめくさったこの社会を嘲笑しているのか。それにしては谷岡の笑いは歪んでいる。もちろん谷岡は、この現実の社会を嘲笑するが、現実の社会を嘲笑する自分という奴を彼自らが笑っているといってはいけないか。
同様のことが山本晋也についてもいえると思う。山本晋也をかりたてているのは、自らを破壊するような情熱である。彼の笑いはただの笑いではない。笑って笑って、ついには自分自身をも笑い切るような気狂いじみた笑いなのである。この世を嘲笑する同じ舌が自らも嘲笑する。ついには彼はこの世を嘲笑しているのか自分を嘲笑しているのか、わからなくなる。山本晋也が錯乱するのは、こういう場所においてである。
一般に風刺作家は、ふまじめに思われがちである。ふまじめに思われても、風刺作家にとってはなんでもないであろうが、この世を茶化そうとするような態度から風刺が生まれることはありえない。はっきりいえば、この社会の現実を、くそまじめに眺めるところにしか風刺は生まれないということだ。
山本晋也の映画の面白さは、もう一歩で、しらけるというギリギリのところまで風刺をきかせている点に求められる。たとえば、彼の映画に男根と女陰を形どった袋をかぶって、人間が現われたのには私も驚いた。つまり男根と女陰を彼は擬人化して、それぞれにしゃべらせるという試みをやらかしたのである。どっちらけスレスレの危うい風刺だと思った。
ここまでやると通常の意味での風刺の枠を超えている。ときどき私は山本晋也の中に、喜劇に挑戦して喜劇それ自体の成立するわくを破壊しようとする強じんな批評精神を見る思いがする。こういうことがそもそも彼のくそまじめな精神の現われなのであり、極端なナンセンス精神は、くそまじめな精神と背中合わせになっているということを人は知らないのである。
さすがに男根と女陰がスクリーンに現われたときには客の大半はバカバカしいと思いながらも笑ったであろうが、観客をバカバカしいと思わせる彼の才能には、たいへんなものがあると私は思う。

<山本晋也論>後編 暖かいまなざしの人間喜劇

山本晋也には、痴漢、女湯、という二つのシリーズものがあって、彼の個性が実にハツラツと生かされているが、もうひとつ見落とすことができないものに、野上正義と真湖道代の二人が演ずる、サラリーマンの日常的な夫婦生活を描いたコメディがある。
これは彼の無邪気な精神である。登場するのは、強い妻と弱い夫であるが、彼は、そこに父性の崩壊を見ているのでもなければ、母性への思慕を託しているのでもない。彼は、ただ無邪気な眼で、サラリーマンの日常生活のディティルを眺めているのだ。彼の映画から、どんな思想を抽象化しようと試みてもムダである。それほど彼の眼は地についているといってもいい。日常生活にまとわりつく、どんな観念をも断固として拒絶し、彼は自分の眼が見たものだけを、しつように描く。そこに山本晋也ならではの笑いが生まれるのであって、観念的な操作によって、でっちあげられる種類の喜劇とはわけが違う。
ピンク映画のイメージは、従来、圧倒的に暗く、じめじめしたところがあった。全部が全部とまではいわないが、哀しい女の流転を描いた作品がピンク映画の初期以来、主流を占めてきた。ここ二、三年の間に、ピンク映画の世界にも、たくさんの喜劇ものが作られてきたが、ピンク映画界に喜劇ブームをまきおこしたのも、山本晋也にほかならなかった。
ピンク映画というワクをはずしても彼の作品は通用する。それは彼の生み出す喜劇が彼の個性と分ちがたく結びついていることに由来する。これは、まぎれもなく、山本晋也の喜劇だという意味で、喜劇映画を撮れる監督は、ピンク映画の世界には残念ながら一人もいないであろう。
山本晋也はこの十年近くの間に百本近くのピンクコメディを作って来た。彼の喜劇映画を見てバカバカしいと笑うこと、バカバカしい喜劇映画を創造することとは明らかに別のことである。
山本晋也の喜劇映画は、彼のとほうもないナンセンス精神の表現であるが、その底にはどうすることもできない物哀しさが流れていることは「女湯、女湯」を始めとして、彼の一連の作品が証明している。彼の世界は、あまりにも、あっけらかんとしており、叙情性を拒んでいるが、彼の冷たい客観描写の底に私は山本晋也の、人間に対する暖かいまなざしを感ずる。
通常の喜劇を破壊するほどまでに狂おしい彼のナンセンス精神の背後には、いやしがたい魂の飢餓のようなものがあるのだ。
地方の場末の映画館で彼が自作の映画を見ていたら、隣にいた老人夫婦が、よかった、よかったといって涙を流していたという。その姿を見て、彼はガンバラなくっちゃと思ったというが、実に山本晋也らしいエピソードではないか。
彼が映画を撮ろうと思いたつとき、彼の念頭に浮かぶ観客とは、映画評論家でも映画青年でもなく、黙って生活の辛さに耐えて生きている、そうした老人夫婦のような存在であることは間違いない。