渡辺護の映画論「主観カット/客観カット」(2004年)

(このインタビューは、2004年に公開された渡辺護監督作品『片目だけの恋』の宣伝サイトに掲載されたものです)

第1回

1.『アデルの恋の物語』、おれならどう撮るか?

トリュフォーの『アデルの恋の物語』は封切りのときには見てないんだ。あの頃、おれは月に1本のペースで映画を撮っていたからね、そういう映画をやってることも知らなかった。
脚本の井川(耕一郎)が『片目だけの恋』を書くときに意識したっていうから、ビデオで見たよ。この映画、実話なんだってね。ヴィクトル・ユゴーの娘がどうしようもないイギリス人士官に惚れてしまって、どこまでも追いかけていって、身も心もぼろぼろになるって話だ。
若いときには、どうしてあんなに熱烈に好きになってしまったんだろう?ってことがあるよな。おれも若いときにそういう経験をしたよ。その恋が終わったとき、本当に空っぽというか腑抜けになっちまった……って、今はおれの経験を話してる場合じゃないな。
『アデルの恋の物語』は面白かったよ。ひとを愛しても報われないときの悲しみ――そういうのを描くのはフランス映画の伝統みたいなもんだ。おれの好きな話だし、ユゴーの娘・アデルを演じるイザベル・アジャーニも魅力的に映っている。
でも、おれも映画監督だからね、ついつい、おれだったら、どう撮るだろう?って思いながら、見てしまう。
トリュフォーって監督は、少女の主観に入らずに、突き放すように客観的に撮る人だね。それがトリュフォーの持ち味なんだから、いいんだろうけど、おれが撮るなら、もっと別の撮り方をすると思う。
ラストで、イザベル・アジャーニ演じるアデルが真っ昼間のアフリカの町をぼろぼろの格好でさまようでしょう? 惚れていたイギリス人士官がすぐ目の前に姿を見せるんだけど、アデルは発狂しているわけだ。だから、その男が恋いこがれた相手だと分からないまま、通り過ぎていく……。
ここはとてもいいシーンだと思うんだよ。おれだったら、どう撮るか?って考えたくなるような名場面だ。
トリュフォーはこのシーンを全部フルサイズで客観的に撮っているね。でも、おれだったら、まずはアデルの主観に入りこんで撮ると思う。惚れた男を必死になって探してまわるアデルの印象的なアップをいくつも撮って積み重ねていくと思うんだ。
で、そこに男が現れるんだけど、アデルはその横をすーっと通り過ぎてしまう。それで、あッ、彼女は発狂してるのか……!って初めて分かるようにする。
このとき、おれだったら、二人がすれちがう広場を大俯瞰でどーんと突き放して撮ると思うんだよ。二人の間に人と人との関係がもはや成立しない空しさを、空っぽの空間で表現しようとするんじゃないかな――客観的にね。
やっぱり、おれは、映画ってのは主観カットと客観カットの組み合わせだと考えているからね、どうしてもそういう撮り方になっちゃうんだな。

で、今回のインタビューのお題は「主観カット・客観カット」だって?
このことはちょっと前に、日本映画監督協会のホームページに載ってるインタビューでも話している(注1)。
インタビューをした石川均は「主観カット・客観カット」の話を聞いて、勉強になるなあ、なんて言っていた。で、「いいんですか、こんな話、インタビュー記事にしても?」って最後に訊いてきたよ。おれは別にかまわないと答えた。
おれの言う「主観カット・客観カット」は、一般的に言われてる「主観カット・客観カット」とちょっと意味がずれてるみたいなんだ。それだから、渡辺流演出の秘密だとか奥義みたいに見えるのかもしれない。けれど、そんなものじゃないんだよ。映画をどう撮るかを考えるときのヒントみたいなもんで、別に隠し持ってる必要なんかない。
……でも、こんな話、インタビュー記事にして、読むひとは面白がってくれるのか?
石川が面白がってくれたのは、あいつもおれと同業の映画監督で、似たような問題をいつも考えていたからだよ。だから、普通のお客さんが「主観カット・客観カット」みたいな話を面白がってくれるかどうかは心配ですねえ。
それにおれは論理的にしゃべったりできないからね。思いついたことを思った通りに言うことしかできない。だから、このインタビュー、お客さんに分かりやすく、うまくまとめてほしいね。

注1:日本映画監督協会ホームページ「あなたの台本見せて下さい」の渡辺護の回。

http://www.dgj.or.jp/modules/contents4/index.php?id=12

2.それで、おれは山本晋也を推薦した

たしか、昭和45年(1970年)頃だったと思う。あるとき、パクさんと一緒に山本晋也の新作を見たんだ。
パクさんっていうのは、小森白(注2)のことだ。白は「きよし」と読むらしいんだが、おれたちはパクさんって呼んでいた。パクさんは新東宝で『大虐殺』や『大東亜戦争と国際裁判』なんかを撮った監督で、新東宝がつぶれたあとは、ピンク映画界に来て、『日本拷問刑罰史』なんて映画を撮ってヒットさせていた。
山本晋也(注3)の映画を見たあと、パクさんとおれは喫茶店に入った。すると、そこで小森白がおれにこう訊いてきた。「なあ、ナベよ。チョクの映画、どっかおかしくないか?」――チョクってのは山本晋也のことだ。あいつの本名が伊藤直というんで、チョクと呼んでいたんだよ(正確には「いとう・すなお」と読む)。
そのとき、おれはハッと気づいたんだ。チョクの映画はアップを撮っても主観に入らない。あいつのアップはいつも客観だ。
いや、アップだけじゃない。山本晋也の映画は全編、客観カットだ!ってね。
それが渡辺流「主観カット・客観カット」の始まりなんだけど、もっとも、これはその場のひらめきってことじゃないんだ。それまでに数年、山本晋也と付き合いがあったからね、その中で漠然と感じていたことがやっと言葉にできたってことかな。
おれが最初に見た山本晋也の映画は『或る密通』(67)だ。若松孝二、向井寛、山本晋也の三人で撮ったオムニバスだった。若松と向井のパートは、気負いすぎたんだろうな、訳が分かったような分からないような映画で、おれはダメだった。
山本晋也のパートだけ良かったんだよ。もうどんな話だがすっかり忘れてしまったけど、女が寝ている布団をパーッと剥ぐところがあるんだ。で、突然、ウサギの赤い目と裸の女のカットバックになって、お月さんが映るんだよ。
「女の裸→ウサギ→月」ってことは生理を表現してたんじゃないかって? そうかもしれないけど、もうどんな話だったか忘れちまったよ。とにかくおれは山本晋也当人とは面識がなかったけど、この男が撮る映画はしゃれてるなと思ったんだ。
ちょうどその頃、おれは小森白が社長をやっている東京興映ってところでピンクを撮ってた。でも、パクさんとおれだけじゃ人手が足りないから、誰かいい監督はいないか?って相談されたんだよ。
それで、おれは山本晋也を推薦した。

注2:小森白(1920~)のフィルモグラフィーはこちら。

http://www.jmdb.ne.jp/person/p0174030.htm

注3:山本晋也(1939~)のフィルモグラフィーはこちら。

http://www.jmdb.ne.jp/person/p0150530.htm

3.こんな撮り方があるのか!

山本晋也が東京興映で最初に撮った映画は『知りたい年頃』(67)というタイトルだった。脚本はカチンコ打ってた助監の小栗康平と下田空ってライターの共作で、主演は谷ナオミ(注5)、林美樹、白川和子の三人。話らしい話なんてものはなかったけど、少女が「知りたい」ってテーマでいろんな経験をするコメディだった。
この映画、どういうわけだかおれが製作をやってるんだよ。パクさんから「推薦したんだから、責任持てよ」と言われて、製作やることになったんじゃないかな。でも、製作をやったおかげで、おれは山本晋也の現場を見ることができた。
とにかく、撮影が早いんだよ。おれは1カット1カット神経質になって撮っていくんだけど、チョクはまるで逆だ。どんどん、いろんなカットを撮っていくんだ。で、その間ずっと、笑ってる。「よーい、はい!」と言って、カメラがまわる。で、「カット」と言ってすぐに「うふふふふ。OK!うふふふふふ……」だよ。
撮るカットも画としての面白さを狙ってるんだ。女の子が「えッ!」と驚くたびに、なぜだか柱に抱きついたり、坂を車が走っていると、自転車がサーッと追いこしたりね。カメラマンも雑踏を撮るときに、地面すれすれにカメラをだらりとぶら下げてファインダーなんかのぞかないんだよ。それからひょいと持ち上げて、目の高さで撮り続けていく。
面白いものがあればドキュメンタリー的にどんどん撮っていくって方法と言ったらいいのかな。こんな撮り方があるのか!って、おれには新鮮だった。たとえば、外で撮影してると、屋台がある。「じゃあ、屋台で何か撮ろう。ナベさん、屋台の客やってよ」ってことで、あっという間に撮ってしまう。
そういえば、屋台のひとが撮影が終わった後に、「いい娘、紹介しますよ」っておれに言ってきたんだよ。その屋台、売春の斡旋もしてたんだな。で、おれはそのことをチョクに話して、「後で一緒にどうだい?」って誘ったんだ。そうしたら、チョクのやつ、うふふふふ……なんて笑いながら映画を撮ってるくせに、急に呆れたかえったような顔をして言うんだよ。
「ナベさん、何言ってんだよ。今は撮影中だよ」
……そりゃあ、チョクの言ってることの方がまともだけどな。

『知りたい年頃』を見たパクさんは、「何て映画だ!」と思ったみたいだった。そりゃそうだろう。小森白がやってきたようなオーソドックスなつくり方の映画じゃないんだから。
ところが、これが当たったんだよ。それで、引き続き、東京興映の仕事をすることになった。
おれとチョクはすぐに仲良くなったね。あいつは西新井で、おれは王子――二人とも江戸っ子だってことがあったかな。それから、ガキの頃から映画好きで、その点でも話があった。
でも、いくら仲良くなっても、おれとチョクじゃ、映画の撮り方も違えば、出来上がる映画もまるで違う。一体、この違いは何だ?とおれはだんだん考えるようになっていったわけだ。

第二回

1.あのとき、おれには山本晋也が神様に見えたね

昔、ダスティン・ホフマンとミア・ファロー主演で、『ジョンとメリー』という映画あった。朝、起きたら同じベッドに寝ていた男女の一日を描いたやつで、最後に互いに相手の名前を聞くところで終わる。そいつをいただいて、ピンク映画を一本撮ったことがあるんだ。たしか『レモンSEX 激しい愛戯』(70)ってタイトルの映画だった。
この映画の撮影中に、前に撮った映画のギャラを受け取りにいったんだよ。スタッフにギャラを支払わないといけないからね。ところが、金は受け取ったんだけど、すぐに帰れなかった。オイチョカブやっていかないかと誘うんだ。
明日も撮影があるんだけど、これもつきあいだからそう簡単には断れない。そりゃあ、さっさと負けて帰ろうとは思ってたよ。そうしたら、欲のないやつは怖いねえ……。負けるつもりが、勝ったもいいとこ。勝ちに勝ったんだよ!
明け方、事務所に戻ってきたんだけど、今日のぶんのカット割りなんかまるで考えちゃいない。どうしようか。まあ、まずは寝ようと思ったんだが、「おはようございまーす」なんて早めに来るやつがいて、眠れやしないんだ。
その日は撮影の最終日で、『ジョンとメリー』みたいなラストシーンを撮る予定だった。ところが、午前中、撮影してみたものの、頭がモーローとして、リズムが出ないんだよ。それで昼食のときにチョクさん(山本晋也)に電話して、事情を説明した。
おれはチョクさんに、午後の撮影、かわりに監督してくれないかと頼んだ。そうしたら、「これからロケハンがあるから」って言うんだよ。「ロケハンなんていつでもできるだろ? おれんとこ来いよ」「そうはいかないよ、ナベさん。助監だって迎えに来るんだし」。考えてみれば、おれの言ってることはムチャクチャだ。で、「ごめん。悪かったな。今の話はいいよ」と言って電話を切った。
ところが、午後になって山本晋也が現場にやって来たんだよ。「やっぱり、ナベさんのことが心配になって」と言って、ロケハンをやめて来てくれたんだ。あのとき、おれにはチョクが神様に見えたね!
おれはラストシーンをまかせて、隣の部屋で寝た。「よーい、はい!」という声を聞きながら、いい気持ちで寝ましたよ! 「カット! OK、うふふふふ」なんて山本晋也はいつものように笑ってた。でも、おい、今の「うふふふふ」ってのは何だ? おれが撮ってたのはコメディじゃねえぞ……。
完成した映画はどうだったかって? これが、山本晋也の撮ったラストが良かったんだよ! おれよりうまい。自分の映画じゃないから、気楽に撮ったのがよかったのかな。あいつ、ラストシーンを停電って設定に変えてちゃってるんだ。で、ロウソクをともして、男と女が「かんぱーい!」と言って酒を呑む。それから、『ジョンとメリー』みたいに「ぼくは太郎」「わたしは花子」と自分の名を名乗るんだ。
けれどね、名前を名乗るところがいかにも山本晋也なんだよ。客観カットなんだ。試写のとき、あいつが撮ると、やっぱりあいつの映画になるなあ、とおれは思ってた。
山本晋也は「ナベさん、映画って結構つながるもんだね! うふふふふ」なんて笑ってたけれど。

2.山本晋也は全編客観カットだ

おれたちは会うと、映画の話ばかりしていた。おれがよく「映画的」「映画的」と言ってたから、山本晋也も「映画的」って言葉を使うようになった。「あの映画のあのシーンは映画的だよな」「うん、あれは映画的に通だよ」といったふうに。
ところが、「映画的」って言葉で一見、話は通じてるように見えるんだけど、撮る映画を見ると、何だか変なんだよ。頭のすごくいいやつなんだけど、おれの考える「映画的」と違う。
昭和42年(1967)頃に、何てタイトルだったか忘れたけど、チョクさんの映画で市川崑の『恋人』のストーリーをいただいたようなやつがあるんだよ。その中に、男が女を「生意気だ!」ってことで、パチーン!とひっぱたくシーンがある。そうすると、女がハッとなって、男に惚れる――昔の松竹大船調みたいなことをやりやがってと思ってたら、その後に万葉集みたいな字幕まで出てくるんだよ!
こりゃ、何て映画だ!と思っていたら、山本晋也は本気で撮ってるんだ。試写のとき、「ナベさん、結構、映画的だろ?」なんて言ってる。
その映画は潮来で撮影してるんだけど、渡し舟使って、「舟が出るぞー!」「おーい、船頭さん、待ってくれー!」なんて芝居も撮ってる。山本晋也にしてみれば、「渡し舟って映画的だろ?」ってことだ。そりゃ、映画的かもしれないけど、時代を考えろよ。現代劇だろ、これは……。
要するに、山本晋也の場合、映画的なものを撮れば、映画的なんだよ。時代なんか関係ない。でもね、その映画は古臭いことやってるんだけど、そうは見えないところが不思議なところなんだ。
『女湯・女湯・女湯』(70)もそうだよ。おれがよく山中貞雄の話をしてたから、現代劇なのに、主演の松浦康に三度笠に合羽なんて格好をさせるんだ。映画的に通だってことで。そりゃ、『女湯・女湯・女湯』はコメディだよ。でも、ケロッとしてああいうことをやってのけるのが山本晋也の凄いところだ。いくらコメディだからと言っても、おれには現代劇に渡世人の格好したやつなんか出せないよ。
そんな調子だから、山本晋也の映画はシリアスなやつでも、どこかおかしいんだよ。パクさん(小森白)はそのことがずっと気になってたんだろうな。パクさん、チョク、おれの三人で撮った『悪道魔十年』(67)というオムニバスのときもそうだった。山本晋也は現代劇なのに、役者に宮本武蔵みたいな格好をさせて、仏像の前で悟りが開けた!なんて芝居を撮っている。映画的だろってことで。
あるとき、撮影が終わって旅館に戻ると、パクさんが「ナベ、ちょっとおれの部屋に来いよ」と言うんだ。で、パクさんの部屋で呑んでいると、「ナベ、チョクの映画、どっかおかしくないか?」と訊いてくるんだよ。そーら、また例の質問が始まったと、おれがニヤリとしたら、パクさんに叱られたよ。「ナベ、なに笑ってんだよ。こっちは真面目に訊いてるんだぞ」
そういうわけで、おれも真面目に考えましたよ。で、前にも話したように、喫茶店でパクさんに同じ質問をされたとき、やっと分かったわけだ。山本晋也の映画は全編客観カットだ!と。

山本晋也はもとは岩波映画の助監督だったんだよ。羽仁進についていて、劇映画の演出ってものをあまり知らない。言ってみれば、ドキュメント出身なんだ。だから、アップも客観、フルショットも客観――全編客観カットの独特なドラマツルギーで山本晋也は映画を撮っていた。
普通、劇映画でアップを撮るときには、登場人物の思いや感情を考えて撮るだろう? ところが、山本晋也はそうじゃない。女が口をとんがらせて喋ったり、たらこを食うのに一生懸命だったりするのが見ていて面白いと、そういうのをアップで撮る。つまり、登場人物の主観に入るんじゃなしに、客観的に登場人物の個性を撮っていくんだよ。
そういうやつだから、人間の見方が他と違うんだ。たとえば、ダンナの葬式でおいおい泣く女がいるとしようか。そうすると、山本晋也はその女が泣いてる合間に「あの人は大食いだから注意してね」なんて言うのに、興味を持つんだ。だから、悲しいシーンがちっとも悲しくならない。山本晋也に喜劇を撮らせるとうまかったのは、全編、思い入れも何もない客観カットという撮り方と関係があると思う。

注:「山本晋也は個性を客観的に撮る」という指摘に関連するような山本晋也当人の発言があるので、参考までに引用しておきます。
「この間、加藤泰さんの『人生劇場』をしみじみ見た。ベッドシーンを見たとき、あれはわれわれの創世期だと思った。路加奈子、松井康子にかかれば同じことだよ。それも香山美子よりピンクの女優のほうがうまい。とくに芝居しなくたって時代を出す。この間、女の子が手帳開いて電話して「奥さんがそこにいるの」なんてやっている。「ジャバジャバのみたいの、そう、じゃいいわ」。また手帳開いて、「あんまり好きじゃないけど、今日はハゲにすっか」なんてやっている。そのときのうまさ。そのまま撮ったよ。悪い女なのかいい女なのかわからない。憎めない。相手の家庭を傷つけるつもりは全然ない。今日、ジャバジャバのみたいだけ。そのとき、これで映画を撮っていかないといかんと思ったね。新高恵子も城山路子もいないんだから」
座談会「渡辺護と山本晋也」『映画評論』1973年4月号(この座談会は『映画評論の時代』(佐藤忠男・岸川真編著、カタログハウス)に収録されています)

3.全編主観カットの小森白

山本晋也が全編客観カットだとすると、その対極にいたのが小森白だ。
おれはパクさんに言われたことがある。「ナベ、お前は簡単にひとを殺しすぎる」と。
言われてみると、パクさんの撮り方は違うんだよ。パクさんの映画で、これから殺される男が「穴を掘れ」と命令されるやつがある。お前の死体をその穴に埋めるってことだ。そうすると、パクさんは、レールをひいて、カメラが寄っては引き、引いては寄り……で、穴を掘る男をばかすかたくさん撮る。
パクさんは職人としていつも映画の商品価値ってことを考えているんだ。だから、ここで客は泣くと考えると、これでもかこれでもかと思い入れをこめて撮る。そのかわり、設定なんかを説明するシーンになると、シナリオをどんどん切っていく。必要な説明がつきゃそれでいいってことだ。つまり、パクさんは全編主観カットの映画を目指してるってことかな。
山本晋也の「全編客観カット」と小森白の「全編主観カット」――この二つに気づいてから、おれの演出は変わったと思う。それまで、おれは説明カットもきちんと撮らなくちゃと思ってたけど、パクさんのように切るようになったからね。
山本晋也の影響ってことで言うと、今度の『片目だけの恋』の佐々木日記のシーンなんかそうかもしれないね。
井上(田谷淳)が佐々木日記演じる少女とラブホテルに入るシーンがあるんだけど、そこでおれはベッドにバターン!と倒れこんでくれと言うつもりで、「ベッドに飛びこんでみようか」と言った。
そうしたら、あの娘は「せーの!」でジャンプしてベッドに飛びこむんだよ。プールに飛びこむみたいに! あんまりおかしいから、そのまんま撮った。あれなんか山本晋也流の撮り方だと思う。

4.「主観カット/客観カット」でおれの映画の見方は変わった

そういえば、主観カット・客観カットってことを考えるようになってから、おれの映画の見方は変わってきたね。
市川崑さんは山本晋也と同じ「全編客観カット」の監督だ。アップを撮っても主観に入らない。動きが面白いところをアップで撮る。たとえば、木枯紋次郎のふりかえり方が面白いと、そこをアップで撮るんだ。たぶん、そういう撮り方になるのは、劇映画の世界に入る前にアニメーションをやっていたからじゃないかと思う。
凄いのは、溝口健二と小津安二郎だよ。
溝口さんは1シーン1カットで撮っているけれど、その1シーン1カットの中に主観もあれば、客観もある。小津さんはと言うと、アップは撮らない。全部客観といえば、客観だ。でも、『晩春』のラストで笠智衆が一人きりでリンゴの皮を剥くところがあるでしょう? あそこは引いた画だけれども、主観なんだ。
つまり、溝口健二と小津安二郎の映画では、主観と客観が同時進行してるんだよ!
そのことに気づいたとき、おれにはとてもそんなことはできないと思ったね。それなら、どうしたらよいか?
おれは昔から好きだった黒澤(明)さんや伊藤(大輔)さんのように行こうと思ったんだ。主観カットと客観カットを組み合わせて映画を撮っていこうと考えたんだよ。

第3回

1.「アップ―フルショット」じゃなくて、「主観―客観」

――渡辺さん、今までの話を整理して、ちょっと質問していいですか?
渡辺護「ああ、どうぞ」
――渡辺さんの言う「主観カット・客観カット」というのは、つまり、こういうことですか? 主観カットとは、観客に登場人物への感情移入をうながすようなカットであると。それに対して、客観カットは、観客に「物語の中の世界をどう見るか」という問いを考えるようにうながすカットであると。
渡辺「まあ、そういうことかな」
――で、一言で客観カットと言っても、実際には客観性に高低があるように感じました。つまり、客観性の低い客観カットは、監督が「ご自由に解釈して下さい」と言っているように見えるカットで、客観性の高い客観カットは、そのカットを撮った監督の世界認識を強く意識させるようなカットである、と。
渡辺「うーん、おれは感覚的に思ったことをしゃべってるだけでね……」
――渡辺さんは、小津や溝口の映画では主観と客観が同時進行しているとおっしゃってましたね。ということは、主観カットと客観カットの2種類のカットがあるのではなくて、どのカットにも主観的な面と客観的な面の二つの側面があると理解していいですか?
渡辺「そうですねえ。そう言ってもいいかな」
――だとしたら、渡辺さんの今までの話はグラフに描くことができますね。
渡辺「???」
――X軸を主観性、Y軸を客観性としてグラフを描くと、X軸寄りの領域が主観カット、Y軸寄りの領域が客観カットとなる。で、原点の0から45度の角度で右上へと伸びていく直線の先に、小津や溝口のような主観・客観同時進行のカットがあって、それで、渡辺さんの映画の撮り方はというと……
渡辺「おいおい、難しい数学の話は分からねえよ(笑)。そういう話は(小田切)理紗にしてくれ。あの娘は高校のときに理数系だったそうだから。数学が好きだなんて面白い娘だよ、小田切理紗は!」

おれの話が役に立つとして、結局、おれが若いひとたちに言いたいことはね、こういうことです。
若いひとが撮る映画を見ていて最近気になるのは、ドキュメントふうに客観カットだけで映画を撮ろうとしてるってことだ。この傾向は相米慎二以後のものだね。相米慎二の1シーン1カットを評論家がやたらと誉めてた時期があったでしょう? それで、若いひとたちは「アップは説明的だ。引いた画で客観的に撮るのが映画として高級だ」と考えるようになったんじゃないか。
おれは相米慎二の『翔んだカップル』は封切りのときに見て、しゃれてるなと思ったんだよ。でもね、『魚影の群れ』あたりになるとね、そんなに苦労してまで長回しをやる必要はないだろうという気がした。意味もなく長回しをしていると思った。
相米さんについては、『お引越』『あ、春』『風花』といった作品で評価すべきだと思う。このあたりの相米さんの映画はさすがだ。人間はばらばらで孤独で悲しい存在なんだということを緻密な構成で撮っている。登場人物の行動のあとにストップする瞬間が来ると、そこが主観カットになっているんだよ。主観・客観が同時進行している映画を撮っていたと思いますねえ、相米さんは。
でもね、相米慎二のそういう優れたところを若いひとたちは見落としてると思うんだよ。対人関係の描写がいいかげんになっているんじゃないか。「こういう人間関係がありました。あとはご自由に解釈して下さい」って観客に放り投げて終わりという感じ。客観カットで押し切ってドキュメントふうに撮るのが本当に映画的に高級なのか、考えて直してほしいね。
映画ってのは、登場人物の喜怒哀楽が表現されてないとダメだと、おれは思うんですよ。だから、若いひとには、「アップ―フルショット」じゃなくて、「主観―客観」で映画を撮ることを考えてほしい。フルショットで撮ってもいいけれど、役者の動かし方、間の撮り方をきちんとやるべきだと思う。そうして観客を映画の中に入りこませていかなくっちゃいけないよ。

補足:アップには力がある。たとえば、登場人物がある台詞を言うのが重要だとしますか。そうすると、アップを撮ろうってことになる。でもね、ここも重要、あそこも重要ってことで、そのたびに撮ってたら、アップが効かなくなるんだよ。ただの説明カットになってしまう。言葉にすると、バカみたいに簡単なことだけど、アップはね、お客さんが見たいってときに入らなくちゃ。
『片目だけの恋』のラスト15分の芝居の中で、最初にお客さんが見たいと思うのは、ユカが「あの日、何で来てくれなかったの?」と言うところだ。だから、この台詞を言うまでおれは小田切理紗のアップを撮ってない。で、いよいよ台詞ってときには、理紗のいい顔を撮ろうってことで、かなり気をつかってアップを撮ってる。

2.「監督は役者に芝居をつけることだけに専念しろ」と言われた

でもね、実を言うと、おれも昔、小森白に言われたんだよ。「監督は役者に芝居をつけることだけに専念しろ」と。
『処女残酷』(67)って映画を城ヶ島で撮っているときだった。キャメラマンとおれが対立したんだよ。おれが寄って撮れと言っても、そのキャメラマンは聞かないんだ。こういうときには普通こう撮るものだと言ってね。
おれはそういう考え方が嫌いなんだよ。おれがTVドラマの助監をやってたときについてた監督はみんな、そういうやつらだった。たとえば、喫茶店で待ち合わせをしているシーンを撮るとしましょうか。そういうとき、おれのついてた監督は、最初に引きの画で喫茶店全体を見せて、それから待っている女のアップを撮って、その次に……っていうふうに何の疑問もなく撮っていくんだよ。それがこういうシーンを撮るときの常識で、撮影の効率もいいってことなんだ。
おれはそういうマンネリズムが大嫌いだった。だから、監督になってから、1カット1カット、映りに神経質になって撮っていた。それが『処女残酷』のとき、パターンどおりの撮り方をしようとするキャメラマンと対立してしまったんだ。
そうしたら、運悪くそこにプロデューサーのパクさん(小森白)がやって来たんだよ。
その日は泊まっていた旅館の都合で、一晩だけユースホステルに泊まることになっていた。で、撮影を終えてユースホステルに着いたとたん、パクさんが「ナベ、ビールを買いに行こう」って言うんだよ。ユースホステルにアルコールはないからね。
パクさんの車で酒屋に行ってビールを買って……、戻ると思ったら戻らないんだよ。ちょっと呑もうやって、呑み屋に入った。そこであわびなんかをごちそうになってるときに、パクさんに言われたんだよ。
「なあ、ナベ、キャメラマンはいいところから撮るのが仕事なんだ。どう撮るかはキャメラマンに任せろ。お前は芝居をつけることだけに専念しろ」
ユースホステルに戻ってからも、パクさんは「カット割りなんか考えずに、さっさと寝ろ」と言うんだ。でも、寝ろったって寝られやしない。結局、パクさんがもう寝たろうなって頃にこっそり起きて、明け方まで必死になってカット割りを考えたんだよ。
翌朝、パクさんが「撮影だぞ」とおれを起こしに来たときに、しまった!と思ったよ。その頃のおれはヘビースモーカーだったからね。カット割りしながら吸った煙草の吸い殻が灰皿に山盛りになってたんだ。でも、パクさんはそれを見ても、何にも言わなかった。
おかしいと言えば、キャメラマンの態度もおかしかったんだよ。おれがこう撮りたいと言っても、反対しないんだ。「はい、はい」とおれの言う通りにするんだよ。
どうしてそうなったかは、後になって、そのときのキャメラマン助手から話を聞いて分かった。
その日の朝、パクさんがキャメラマンを呼んで言ってくれたらしいんだ。
「ナベには芝居だけを考えろと言ったのに、あいつは明け方までカット割りをしていた。そこまで一生懸命になっているんだから、あいつの言うことを聞け。できないなら、うち(東京興映)はお前さんにはもうキャメラを頼まない」と。
……今思うと、おれはひとの心を無視して生きてきたと思う。世間知らずのわがままで押し通してきた。ずいぶん、ひとに助けられてきたのに。
反省することばっかりだよ。今さら、この性格は変えられないけどね。

第4回

1.小森白の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』

パクさんと言えば、若松孝二が小森白の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』の助監をやったときのことを『若松孝二・俺は手を汚す』(ダゲレオ出版)の中で書いてるね。
「大蔵貢が来て、『ヨーイ、スタート』って自分がいきなり監督になるわけですよ。監督やってる小森白が、全然小っちゃくなって、ショボンとしてるわけ」
それで、若松孝二は腹を立てて、助監督を集めてストライキを起こし、小森白を監督に復帰させたとある。若松は正直なやつだから、自分の体験をそのまま言ってると思うけど、これじゃまるでパクさんが何もしてなかったみたいだ。けれど、パクさんに訊いてみると、話がちょっと違うんだよ。
大蔵貢には現場に来て監督をやる悪い癖があるって話は聞いたことがある。パクさんも運悪く大蔵の悪癖にひっかかったってことだろう。監督にしてみれば、まったく迷惑な話だ!
おれなら、カッとなって殴ってたかもしれない。けれど、パクさんはその様子をじっと観察してから、「これなら、私が監督する必要はなさそうですね」と言って現場から引き上げたというんだよ。で、仮病を使って病院に入院した。
どうしてそんなことをしたかっていうと、パクさんには計算があったわけだ。「ナベ、自衛隊はおれが監督だから協力してくれてたんだよ」とパクさんはおれに言った。つまりね、後に東京興映で自衛隊のPR映画を撮ったことがあるくらい、小森白と自衛隊の結びつきは強いわけだ。だから、パクさんが監督を降りたら、自衛隊が黙っちゃいないんだよ。
案の定、大蔵貢は病院に来て、パクさんに監督に復帰してくれと頭を下げて頼んだらしい。そりゃそうだ。自衛隊に帰られちゃ、戦争映画は撮れないんだから。
小森白ってひとは大人だからね、そういうかけひきが上手いんだよ。パクさんはその場では黙ってたかもしれないけど、何もしなかったというわけじゃないんだ。

2.鈴木史郎は信頼できるキャメラマンなんだ

で、何の話をしてたんだっけな。ああ、そうだ。パクさんに「監督は芝居をつけることに専念しろ」って言われたことだったな。
それから、おれはパクさんに言われたことを守ってますねえ。というのは、撮影を頼んだキャメラマンがダメだったってことがあるとしようか。だからと言って、途中でキャメラマンを降ろすわけにはいかない。そういうときには、演出でお客さんに見せられるものにするんです。結局、監督の仕事はね、いい脚本でいい演出をすることなんだ。
それにしても、今までいろんなキャメラマンと組んできたねえ。デビュー作の『あばずれ』(64)は、前にも話したように森一生のキャメラをやってた竹野治夫さんだし、クレージー・キャッツの『花のお江戸の無責任』を撮った遠藤精一さんとやったこともある(『女子大生の抵抗』など)。
『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)や『(秘)湯の町 夜のひとで』(70)なんかを撮った池田清一は真面目でね、オーソドックスな撮り方だったな。久我剛は手持ちでズームを使ってからみを撮るんだけど、これが本当にワイセツなんだ(『人妻を縛る!』など)。
でも、キャメラマンの中で、一番本数が多いのが鈴木史郎だ。
鈴木史郎とはずっとコンビで仕事をやって来たからね、もう細かいことは言わないよ。そりゃ、ここぞというときには狙いを言うけど、あとは「寄って」「引いて」くらいしか言わない。
『片目だけの恋』のとき、撮影現場を見に来た脚本の井川(耕一郎)が面白がっていたね。ユカ(小田切理紗)が井上の家に来て、書斎で寝るシーンがあるでしょう? あのシーンを撮るとき、おれは「ここは映像演出だから、鈴木ちゃん、よろしく」と言って、あとの準備は全部まかせて部屋を出たんだ。
ただ寝ているユカを1カット撮るだけなのに、鈴木史郎は「うーん、難しいぞ」と腕組みしたそうだよ。それから、部屋の中をぐるぐる歩き回って、隅にある机の前で立ち止まった。で、助手に「用意してあるガラス板を持ってきてくれ」と言ったらしいんだ。
どんなカットを撮ったかは映画を見れば分かることだけど、鈴木史郎は机の上にガラス板を置いて、本棚が反射して映ってるのを撮ろうとしたわけだ。というのも、ユカにとって、井上が買い集めた古本に囲まれて眠るというのは意味のあることだからね。脚本の行間まで読み取って、いい画をつくってくれたんだよ。
で、本番になって(小田切)理紗がベッドの上で寝るとね、あの娘がいい顔してるんだ。そうすると、おれが何も言わなくても、鈴木ちゃんはその顔にちゃんと寄っていってくれる――鈴木史郎はそういう信頼できるキャメラマンなんだ。

3.これが昔のピンク映画のいいところだ

鈴木史郎とは、おれがテレビドラマの助監督で、彼がキャメラ助手だった頃からの知り合いだった。おれのキャメラを初めてやったのは『絶品の壺』(69)だったかな。続けて仕事をするようになったのは、『女の絶頂』(75)あたりからだと思う。
最初のうち、おれと鈴木史郎の間には摩擦があったんだよ。
あいつは「監督が何だ!」と思ってるようなところがあるからね。監督の言うことが納得いかないと、それが顔に出るんだ。まったくイヤなやつだよ!(笑)。たとえば、おれがあるシーンを演出してると、それでいいんですかって顔をしてる。そうして、「監督、この芝居はあっちで撮りましょう」って言い出すんだ。「画になるから」って。
で、鈴木史郎が言う場所に役者を立たせてみると、たしかに役者の向こうで海がキラキラしてていいんだよ。だから、おれも「ちょっと考えさせてくれよな」ってことで、負けずにカット割りをやり直すわけだ。
まあ、最初のうちはそんな調子だったけど、鈴木史郎は画をつくりたがるやつだからね、おれの言う狙いを面白がってくれるようになった。でも、そうなると、今度は別の意味で大変なんだ。
『少女縄化粧』(79)は『あばずれ』(64)と同じく、山本周五郎の『五弁の椿』のいただきなんだけど、復讐の前に日野繭子演じる少女が巡礼の旅に出るんだよ。こういう話はキャメラマンがのりそうな話だ。そうしたら、やっぱり、鈴木史郎が凝りだしたんだよ。
八十八ヶ所まわっている間には、晴れてる日もあれば、雨の日もあるだろう。でもね、これはピンク映画だ。雨を降らすわけにはいかない――と思っていたら、雨を降らすんだよ。それで1カット撮るのに、三、四時間かかった。
日野繭子がちりーんと鈴を鳴らして通り過ぎるだけのカットを撮ろうとしたら、「じゃあ、霊場ってことにしましょう」と言い出して、石を積み出すんだよ。おかげで十分で撮るはずのカットが二時間だ。
いい画を撮ろうとしてるんだから、止めろとは言えないよな(そこで「止めろ」と言えないから、おれは金儲けが下手なんだ)。でも、そんな調子だからいつまでたっても終わりゃしない。そのうち、旅館の金も払えなくなって、うちのが金をつくって届けにきてくれた。まったく大変な撮影だったよ。
『暴行性犯罪史 処刑』(82)のときも鈴木史郎は凝りだしたね。館山に海岸ホテルってところがあって、そこが古い建物だったんだよ。それでよく時代ものの撮影をしていた。『暴行性犯罪史 処刑』のときは、海岸ホテルの二階で憲兵が日野繭子を拷問するシーンなどを撮る予定だったかな。それで、部屋の窓にX字型にテープを貼ったんだよ。ほら、空襲の爆風でガラスが飛び散らないように紙を貼ったってやつだ。
そうしたら、鈴木史郎がテープの影が床にさしているところを撮りたいと言い出した。でも、それを撮るには窓の外にキャメラを出さないとダメだ。イントレ(キャメラをのせる足場のこと)もないのに、二階の窓外からどうやって撮るんだ?
ところが、翌朝、起きてみると、あるんだよ、イントレが!
前日の夜、晩飯を食った後、おれは部屋に戻ってカット割りをしてたんだけど、みんなは酒を飲んでいた。そのとき、鈴木史郎が明日の撮影にはイントレが絶対に必要だと煽ったらしいんだ。
それで海岸ホテルの裏にある廃材を使って、徹夜でイントレをつくってたんだよ。スタッフだけじゃなくて、役者まで手伝って!
バカみたいだろう? でも、これが昔のピンク映画のいいところだ。
世間知らずのわがままで失敗もしてきたけど、おれはいつもひとには恵まれてたと思うよ。

補足:ここまでの話だけだと、奇抜で凝った画を撮るのがいいキャメラマンだと誤解されそうなので、言っておきたい。いいキャメラマンってのは何気ないフルショットがきちんと撮れるひとのことだ。登場人物が、朝起きてアパートを出て、いつもの商店街を通って出勤する――そういう日常を鈴木史郎はきちんと撮ることができる。だから、いいキャメラマンなんだ。

4.渡辺護の洋画ベスト16

ところで、映画ベスト10だけれど、今回は監督になる前に見た洋画から選んでみようと思った。で、思いつくままにタイトルをあげていったら、16本になった。
このことについては、またの機会に話そう。
今回の話はここまで。

渡辺護の「監督になる前に見た洋画ベスト16」
『天井桟敷の人々』(45:マルセル・カルネ)
『ヘッドライト』(55:アンリ・ヴェルヌイユ)
『カサブランカ』(42:マイケル・カーティス)
『望郷』(37:ジュリアン・デュヴィヴィエ)
『旅路の果て』(39:ジュリアン・デュヴィヴィエ)
『荒野の決闘』(46:ジョン・フォード)
『裸の町』(48:ジュールス・ダッシン)
『男の争い』(55:ジュールス・ダッシン)
『サンセット大通り』(50:ビリー・ワイルダー)
『終着駅』(53:ヴィットリオ・デ・シーカ)
『忘れられた人々』(50:ルイス・ブニュエル)
『嘆きのテレーズ』(52:マルセル・カルネ)
『道』(54:フェデリコ・フェリーニ)
『死刑台のエレベーター』(57:ルイ・マル)
『太陽がいっぱい』(60:ルネ・クレマン)
『勝手にしやがれ』(59:ジャン=リュック・ゴダール)