『(秘) 湯の街 夜のひとで』について(井川耕一郎)

(以下の文章は2004年に書かれたものです)

温泉街に三人のエロ事師が流れ着く。営業担当のトリ金(二階堂浩)、ブルーフィルムやエロ写真製作の久生(吉田純)、そして、実演もこなすブルーフィルム女優の雀(大月麗子)。久生と雀は籍こそ入れてないが、夫婦という関係だ。
久生と雀とは何とも奇妙な名前の夫婦だと思う。その名からは、しぶとく生き延びてしまいそうな男とどこか幸薄く儚げな内縁の妻といった雰囲気がただよう。ところが、映画の半ばまでの二人のあり方はその名の通りには見えない。
土佐の黒澤明」と呼ばれた有名なブルーフィルム製作グループには、かつて映画界で活躍していた男が参加していたという。久生も映画界で生きられず、裏稼業に墜ちてきたうちの一人なのだろうか。彼は温泉街に着いてこれから稼ごうというときに、自首しようかなどとうじうじ悩みだす。
そんな久生に雀は言う。「てめえ、それでも男かこの野郎! 自首するだって? 一人前の悪党みたいな口をききやがって! いったい何やったってんだよ。たかがエロ写真じゃねえか!」。名前に似合わず、雀は強い女なのだ。
けれども、そう言った後で、雀は泣きながら、久生に抱きついて体を求める。男の目から見れば、気は強いが可愛いところのある女ということなのだろう。結局、久生は自首するのをやめて裏稼業を続けていく。このあたり、人情ものの王道を照れることなく突き進んでいて、見ていて懐かしい気持ちにさせられる。

久生はエロ事師としてまた律義に働きだし、エロ写真を撮り、ブルーフィルムを映写する。このブルーフィルム映写のときに、久生の活弁つきというのがどこか微笑ましい。と同時に、このシーンは、作り手の欲望を強く感じさせる場面でもある。
渡辺護は『夜のひとで』の企画の出発点としてサイレント映画時代の映画人への憧れを大和屋竺に語ったというが、久生の活弁には渡辺のそんな憧れが色濃くスクリーンからにじみ出ていると思う。
そんなある日のこと、久生はトリ金に一本のブルーフィルムを見せられる。「どやね、凄う迫力あるやろ。これが近頃評判の、ヌーベルバーグちゅう奴やねん」。だが、久生はその評判のレイプもののフィルムを見て言う。「こらあ芸術じゃねえ。ホントにぶん殴ってやがるじゃねえか!」
そして、久生は「生涯に一ぺんのケッ作をとってやる」と宣言し、時代劇ポルノを撮りだす。主役の娘は旅館で働く少女・加代。とは言え、カタギの少女にからみまでやらせるつもりはない。からみは雀を使って撮ることにしていたのだが、トリ金と男優の源ゴロ(港雄一)の暴走で、近頃評判のヌーベルバーグと同じく本当に加代をレイプしてしまう。
レイプしてしまった後、加代が処女だったことを知った久生、トリ金、源ゴロはひどくうろたえる。このあたりの男たちの狼狽ぶりには、大和屋が脚本に参加した『殺しの烙印』と通じるものが感じられる。
『殺しの烙印』の宍戸錠は、間違って一般市民を射殺したために、殺し屋ランキングからすべり落ち、組織から命を狙われる身になってしまう。プロはプロだけの純粋な世界を維持し続けなければならない——たぶん、『夜のひとで』の男たちも『殺しの烙印』と同じ掟を縛られているのだろう。だから、プロ失格の烙印をおされてしまったかのようにガックリうなだれてしまう。
だが、そんなときに雀が口を開く。「さあさあ、何やってんだょォ大の男が! どうせ本チャンは私がやるんだろ! どうしたい巨匠!」。そして雀は草原に大の字に寝転がり、「涼しそうに空の雲を見上げる」のだが、このとき、彼女は何を思っているのだろう。
この世には生まれもって最初からプロである人間など存在しない。たぶん、雀は大の字になって空を見上げたときに、自分が裏稼業に入るきっかけとなった出来事を思い出しているのだ。ひょっとしたら、彼女もまた誰かにだまされて、青空の下で処女を奪われる瞬間をフィルムに撮られてしまったのかもしれない。
だが、その処女喪失のときに、空の雲を見つめながら感じていた痛みや屈辱は、「雀」という名のプロとして生きていく道を選んだ以上、隠していかなければいけないものだ。それは夫である久生にも決して見せてはならない弱みだと言ってもいい。それだからこそ、雀が涼しげに空を見上げるカットは、映画を見る者にとって、どこか切ない忘れられないカットになっている。

それにしても、加代の処女喪失の事件がなかったと仮定して、久生ははたして傑作を撮ることができたのだろうか。大和屋が久生の台詞「生涯に一ぺんのケッ作をとってやる」の中で「傑作」ではなく「ケッ作」と半ばからかうような調子で表記していることから見ても、あまり久生のブルーフィルムの出来には期待はできないような気がする。
とは言え、久生に傑作を撮る可能性がまったくなかったかというと、そうでもないように思える。
映画の前半、久生がエロ写真を撮るシーンがある。久生と雀は四十八手のさまざまなポーズをとり、セルフタイマーで自分たちの痴態を写真にうつす。大和屋はエロ事師たちのこの作業をシナリオに次のように書いている。

ジー……カシャッ——
次々と続く地獄のポーズ。
あくどく塗り上げた化粧、小道具のとり代え……言葉少なに、燃えるでも冷えるでもない、二人の男女ののろのろした動き。

ト書きの中にふいに出てくる「地獄」という語は読む者をどきりとさせる。けれども、ドラマの展開を追っていくと、この「地獄」という語は、雀の寝顔を際立たせるために用いられた語であることが分かってくる。
渡辺護はシナリオの打ち合わせのときにピンク映画の現場のことを大和屋に語ったという。からみの撮影を準備しているとき、ライトの熱と布団のやわらかさに誘われるようにして、女優がベッドの上でうつらうつらしているときがある……。
間違いなく、大和屋は渡辺のこの話に触発されてエロ写真撮影のシーンを書いたのだろう。久生がフィルムチェンジをしている間に、雀はすやすやと眠りこんでしまう。その寝顔は、さっきまで「地獄のポーズ」をとり続けてきた者の顔とは思えないもので、雀が雀と名乗る以前の姿を想像させるようなあどけなさだ。
雀の寝顔には彼女の人生について思いをめぐらせてしまうような魅力がある。だから、久生は雀のその寝顔を思わず写真に撮ってしまう。たぶん、このとき、久生は「生涯に一ぺんのケッ作」のヒントを雀から与えられていたはずなのだ。地獄の中で眠りだけが救いとなるような映画を撮ること——それこそが久生が追い求めるべき傑作であった。
その後も雀の肉体は久生にケッ作のヒントを与え続ける。草原に大の字になって空の雲を涼しげに見つめるとき、そして、活弁の原稿を書く久生のかたわらで軽くいびきをかいて眠るとき、雀は無意識のうちに久生の創作活動に霊感を与えようとしている。
けれども、大して才能のない久生は雀の無償の贈り物に気づくことがないまま、ついにブルーフィルム上映中に警察に逮捕されてしまうのである。

久生逮捕後の映画の展開にはどこか割り切れない感じがある。渡辺護は、源ゴロが発作的に女子高生をレイプした後に首を吊って死んでしまう展開が納得できず、撮影前にどういう意味なのかを大和屋に問い質したという(結局、渡辺は源ゴロの発狂と解釈して彼の死を演出したという)。
だが、割り切れない印象は源ゴロのエピソードだけに限ったことではない。久生逮捕後、加代は別のブルーフィルム製作グループに乱暴に犯される。そして、雀もまたヤクザに売り飛ばされ、肉体を酷使させられた果てに河原に現れ、冷たい水の流れに顔を突っこんで、のたれ死にする。
久生の「生涯に一ぺんのケッ作」に関わった者たちはまるで呪いにかかったかのように、次々と悲惨な運命をたどっていく。だが、ブルーフィルム撮影でプロデューサー役を果たしたトリ金と監督の久生の二人の姿が、逮捕後、一度もスクリーンに登場してこないのが気になる。おそらく、久生は刑務所にでも入っているという設定なのだろう。しかし、それが久生にかけられた呪いだとしたら、雀の呪いに比べてひどく軽くはないだろうか。
——とここまで考えてきて、あることに気づく。久生逮捕後の性急なドラマ展開の中には、トリ金が望んでいだような暴行シーンが源ゴロと加代によって二度も演じられている。また、ラストでは、河原で死ぬ雀の姿にありし日の彼女の寝顔の写真がオーバーラップして、久生が追い求めるべきであった傑作が実現してしまっている。
ということは、つまり、久生逮捕後のドラマは、刑務所内の久生や逃亡先の宿のトリ金が見た映画の夢をつぎはぎにしたものなのだろうか。いや、そうではないだろう。表現への欲望が希薄で無能な作者として、久生もトリ金も物語世界で生き死にできないように粛清されてしまったにちがいないのだ。そして、映画の後半では、渡辺護と大和屋竺の無意識の欲望がじかにスクリーンに露出しだしてきているのである。
本当のことを言ってしまえば、「生涯に一ぺんのケッ作」とは、その映画にかかわった者たちすべてに覚めない眠り——つまり、死をもたらすような映画ではないだろうか。それは撮影現場にいた者に死をもたらすばかりではない。その映画を見た観客にも死をもたらすようなものこそが、「生涯に一ぺんのケッ作」ではないか。
映画のラスト、河原で久生の活弁付きの幻の映画を見た雀はうっとり微笑んでから死んでいく。このとき、彼女が見ている映画は、間違いなくひとに死をもたらす「生涯に一ぺんのケッ作」なのだろう。だが、それはこの世には存在しない夢の映画だ。『(秘)湯の街 夜のひとで』が見る者に強烈な印象を残すのは、その不可能な夢の映画を追いかけずにはいられない渡辺護と大和屋竺の表現への欲望の強さのせいではないだろうか。

作品解説リスト(秘)湯の街 夜のひとで