『紅壺』について(井川耕一郎)

(以下の文章は、mixiに書いた「渡辺護自伝的ドキュメンタリー制作日記」からの転載です(2012年09月14日))

『紅壷』(65)は渡辺護の監督第二作で、現在残っている作品の中では一番古いものである(フィルムはぴんくりんくの太田さんが所有)。渡辺さんはこの作品について、「やっぱり、演出技術の未熟さが露骨に出た映画だな、あれは。だから、見たくないんだよ……」と否定的なことしか言っていない。

だが、こういう自己評価はとりあえずわきにどけておいて、まずは作品を見るべきだろう。
私は太田さんからもらったDVDで見たのだが、なかなか興味深いものだった。
以下に感じたことをいくつか記しておく。

映画は上野駅から一人の少女(真山ひとみ)が出てくるところから始まる。
少女はカメラの前で立ち止まると、小さくあくびをしてから、横を向き、噛んでいたガムを吐き捨てる――そのタイミングで音楽がかかり、『紅壷』とタイトルが出る。
「どうだ、格好いいだろう!」という監督の声が聞こえてきそうなオープニングだ。
今の渡辺さんの目から見れば、ひどく恥ずかしいものなのかもしれないが、しかし、この粋がった出だしは、映画が撮れることのうれしさが素直に出ていて微笑ましい。

微笑ましいといえば、真山ひとみ演じる弘子が黒木純一郎演じるカメラマン・保と上野でデートするシーンもそうだ。
音楽が流れ、黒木純一郎の前でポーズをとる真山ひとみと、動物園のキリンやチンパンジー、オットセイなどがカットバックされるところなど、成人映画であることをすっかり忘れて撮っているかのように見える。完全にアイドル映画のノリなのだ(後に『セーラー服色情飼育』(82)でも似たようなことをやっているが)。
そして、真山ひとみが黒木純一郎の散らかった下宿を片づけるシーン。
窓を開けた真山ひとみはふっと真顔に戻って、頬に手をもっていく――なぜそんな仕草をするのか、心理的な必然性はまったくない。
そういう仕草をすれば、真山ひとみが可愛く見えるという直観的な判断で、渡辺さんは撮ったのだろう。
渡辺さんが真山ひとみに夢中になっていたのがよく分かるカットだ。そこがなんとも微笑ましい。
結局、真山ひとみに別の男がいることが判明し、渡辺さんは失恋するのだが……。
(それにしても、真山ひとみは、頬のふくらみといい、声の感じといい、なんとなく美保純を思い出させる少女だ。踊るシーンがあるから、美保純と結びつけたくなってしまうのだろうか。ゼンマイ仕掛けのオモチャみたいにカタカタと首をふって踊る姿が、かなり個性的で印象に残る)

渡辺さんは『紅壷』について、『マノン・レスコー』を下敷きに使っていると語っていたが、他にも参考にした作品が二本あると思う。
一本目は、監督・大曽根辰夫(このひとは時代劇の監督とみなされているが、鶴田浩二で撮ったギャング映画はもっと評価されていいのではないか)、原作・松本清張の『顔』(57)。
岡田茉莉子が先輩モデルを押しのけてトップ・モデルになろうとするくだりは、『紅壷』の脚本をつくるときにヒントになっているのではないだろうか。
(ちなみに、松本清張の原作だと、主人公は男優で、映画界を舞台にしている。ファッションモデルの世界にしたのは、脚本を書いた井手雅人と瀬川昌治のアイデアのようだ)

そして、もう一本は、監督第一作の『あばずれ』。
『あばずれ』では、左京未知子演じる文枝が、飛鳥公子演じる立子から幸せを奪ったが、『紅壷』では、真山ひとみ演じる弘子が、原あけみ演じる同郷の先輩モデルをトップの座から引きずりおろそうとする。
『紅壷』の脚本づくりは、『あばずれ』の「略奪する年上の女-略奪される少女」という図式を「略奪する少女-略奪される年上の女」というふうに裏返すところから始まったのではないだろうか。

そういえば、『紅壷』には、『あばずれ』にも出ていた男優が二人出演している。
一人は、『あばずれ』では、自殺する立子の父を演じていた千田啓介(このひとは、『夜のひとで』(70)で吉田純演じる久生を逮捕する刑事を演じている)。彼は『紅壷』では、好色なモデル・クラブの社長を演じ、真山ひとみに目をつけて手を出している。
もう一人は、『あばずれ』で立子を犯すチンピラを演じていた黒木純一郎。彼は『紅壷』では、真山ひとみを愛する純情なカメラマンを演じている。
千田啓介も、黒木純一郎も、『あばずれ』とは正反対の役を演じているわけで、このことからも渡辺さんが意識的に『あばずれ』を裏返して『紅壷』をつくろうとしていたことは明白なように思えるのだが……。

黒木純一郎演じるカメラマンが不能ということになっているが、これもなかなか興味深い設定だと思う。
おそらく、渡辺さんと脚本の吉田義昭は、真山ひとみに言い寄る男たち(モデル・クラブ社長の千田啓介、業界紙の編集長の上野山功一、バーの経営者・岩城力也)と区別して、その純情さを強調するために、黒木純一郎を不能という設定にしたのだろう。
しかし、黒木純一郎が真山ひとみに向かって、「ぼくはカメラで撮ることでしか、きみを愛せないんだ!」と叫ぶのを見ていて、ふと思い出したことがあった。
不能と言えば、向井寛の監督デビュー作『肉』(65)の第一話も不能の男の話ではなかったか……。

監督になったばかりの渡辺さんと向井寛が不能を題材の一つに取り上げたことは、単なる偶然なのだろうか。
だが、どちらも、不能と見ることを結びつけようとしている(『肉』の第一話で、不能の夫は妻の情事をのぞき見ることに快楽を感じるようになる)。
となると、不能は、当時の渡辺さんたちにとって、何らかの意味を持っていたのではないか。

おそらく、ピンク映画を撮ることについて意識的に考えだすと、「見ることにとり憑かれる不能」というイメージに吸い寄せられてしまうというのが、当時の想像力の傾向だったような気がするのだが……。
(この観点から、大和屋さんの『裏切りの季節』(66)を見直すと、どうなるだろう? 『裏切りの季節』の主人公は戦場カメラマンという設定だった。また、彼は椅子に縛りつけられた格好で、眉子が拷問されるのを見て興奮していた。大和屋竺はピンク映画の世界に舞い降りてきた決定的に異質な才能というふうに見えていたのだが、意外と他の監督たちとつながる部分もあったのかもしれない)

8月17日に銀座シネパトスで見た『肉』や小川欽也の『女王蜂の欲情』(67)と並べてみると、初期の渡辺さんがからみの撮り方でどのような工夫していたかがよりくっきり見えてくるような気がする。
たぶん、小川欽也の『女王蜂の欲情』のからみの撮り方は、当時の一般的なものであったと思う。
つまり、観客が「このあと、濃厚なからみが展開するのだろう」と想像できたところでカットというのが一般的なものだったのではないか(だから、今の感覚で見ると、『女王蜂の欲情』のからみはとても短く感じられる)。
それに対して、向井寛は、女体の質感や体位などを、もっと具体的に連想させるカットを撮るという方針を選択した。当時の観客の印象としては、からみをねちっこく延々と撮っている感じがあったのではないだろうか。

では、渡辺護はどうなのか?
『肉』や『女王蜂の欲情』との比較から見えてくるのは、向井寛や小川欽也なら、そろそろ黙ってからむだけになりそうなところでも、なおも役者が話しているということだ。
どうやら、この時期の渡辺さんの課題は、からみを芝居として撮るにはどうしたらいいか、ということだったのではないか。
そういえば、真山ひとみが岩城力也演じる轟とからむシーンで、彼女は轟に愛撫されながらも、うつぶせになって雑誌を開き、そこに載っている自分の写真(黒木純一郎が撮ったものだ)に見入っていた。
これなども、真山ひとみ演じる少女のキャラクターを表現するために、からみを芝居として撮った例の一つと言えるだろう。

真山ひとみは言い寄ってくる男たちを利用して、先輩モデルの原あけみを蹴落とし、トップ・モデルになるのだが、そのあとの展開はプレスシートには次のように書かれている。

「弘子(真山ひとみ)に魅せられている轟(岩城力也)は黒江(上野山巧一)に彼女をとりもってやろうと持ちかけられて心を動かした。
河野(千田啓介)の代理だという者から至急渋谷の旅館へ来てほしいという電話を受けて、弘子はその旅館へ急いだが部屋へ入ると不意にドアを閉められハンカチを口に当てられると意識を失ってしまった。
それから数日して彼女の許へ黒江から二三枚の写真が送られてきた。それには轟と弘子の痴情にもつれあっている姿が写されていた。同封の黒江の脅迫状にはネガを百万円で売り渡すと書いてあった。弘子は轟と黒江にその卑劣な行為を激しくなじったが、黒江の態度は蛇のように冷酷だった」 (『紅壺』のプレスシートより)

これは実際に見た映画とはちょっと印象がちがう。
たしかに、旅館にやって来た真山ひとみは、何者かにクロロフォルムをかがされるし、意識を失ったところを岩城力也に犯され、上野山巧一に写真を撮られてしまう。
しかし、次のカットは自宅のベッドで、はッ!と目を覚ますところなのだ。

これではまるで渋谷の旅館に来るように呼び出しがあったところからがすべて、真山ひとみが見た夢のようにも見えてしまう。
事実、目覚めた真山ひとみは、さっきまでスクリーンに映っていた展開が夢だったのか現実だったのかを問うのである。
しかし、答は出ない(横で寝ていた黒木純一郎は、自分がやって来たときにはすでにベッドで寝ていた、と答える)。
にもかかわらず、真山ひとみは、夢を見た以上、災厄はかならず訪れるのだ、と言わんばかりに、玄関のドアを見つめ、「来るわ……」とつぶやく。
そして、立ち上がって、ドアの前まで行き、そこに落ちていた脅迫状を拾うのである。

完成作品のこの展開については何と言ったらいいのだろう。
まるで、真山ひとみは眠って夢を見てしまったこと自体におびえているのかのようだ。
そういえば、映画の冒頭で、彼女は小さくあくびをしたあと、ガムを吐き捨てたのだった。
おそらく、彼女は東京に向かう列車の中でずっと眠っていたのだろう。
そのとき、見ていた夢とは何だったのか。東京で有名モデルになり、贅沢な暮らしをする夢か。いや、そうではないだろう(彼女はそこまで明確な目標を持っていなかったはずだ)。
田舎で退屈な日々を過ごしながら年老いてゆく夢だったにちがいない。
眠ってしまってはいけないのだ。ろくでもない夢を見てしまうから――そう思って、彼女はガムを吐き捨てて東京の雑踏の中を歩き出した。
だが、トップ・モデルになったとたん、眠気が彼女を襲った。そして、それが命取りになったわけである。

ちなみに、プレスシートに書かれたラストシーンは次のようになっている。

「黒江が弘子が持ってきた内渡しの金を受け取って帰りかけたとき、黒い影が彼に躍りかかった。ナイフを持った保(黒木純一郎)だった。黒江は倒れたまま動かなかった。だがもつれた拍子に弘子も脇腹に深い痛手を受けていた。保は黒江が落としたネガを拾うと弘子を助け起こした。だが、弘子の顔には死の影が漂っていた。
愛してる……保を愛している……
弘子は保を抱きしめながら息絶えていった――」 (『紅壺』のプレスシートより)

また、渡辺さんはラストシーンについてこう語っている。

「とにかく階段から落ちるんだよ、女の子が。男はどうしたんだかなあ。ラストシーンは銀座の設定になってるんですよ。で、『情夫マノン』だから、インポの男が銀座の路地を女をかついで歩くっていうのをねらったわけよ。それで、その女が死んじゃうんで、銀座のどっかでおろして、ばっと抱きしめて泣くわけですよ。で、ビルの間から朝日がさして終わるという映画なんだよ」

完成作品のラストは渡辺さんが話した形に近い(残念ながら、「ビルの間から朝日がさして終わる」というカットはないが)。
だが、どちらのラストシーンからもぬけ落ちている細部がある。
それは、死にかけの真山ひとみが「眠たい……眠たいの……」とつぶやくことだ。
『紅壺』を、眠りに落ちて夢見てしまうことに抵抗する少女の物語として見るならば、これは重要な細部だろう。
だがそれにしても、このとき、彼女に死はどう見えていたのか。
おそらく、永遠に続くぬるい幸せというふうに見えていたのではないか。
そして、それは田舎での退屈な日々とどこか似ていたのではなかったか……。