『男ごろし 極悪弁天』から『おんな地獄唄 尺八弁天』へ(井川耕一郎)

(以下の文章は2013年2月にmixiに書いたものです)

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神戸映画資料館で『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)が上映されるとのこと(2月10日16:05~、11日15:50~)。
ちょうどいい機会だから、ドキュメンタリー制作の過程で『尺八弁天』について分かったことを書いておこうと思う。

『おんな地獄唄 尺八弁天』には、『男ごろし 極悪弁天』(69)という前作があることは、以前、渡辺護さんから聞いていた。
けれども、この『極悪弁天』がどんな映画だったのかが、ずっとよく分からないままだった。
何しろフィルムが残っていない(『尺八弁天』が残っているのは、渡辺さんが、これはおれの代表作になる、と思い、自腹で16mmを焼いたからだ)。
シナリオはまだあるかもしれないが、貸して下さいという機会がなかった。

しかし、四年前に渡辺さんのドキュメンタリーの制作を決めると、過去の作品のシナリオを読む必要が出てきた。
渡辺さんの家にあるシナリオをまとめて貸して下さい、と言ったところ、驚き呆れた答が返ってきた。
昔のシナリオをまとめてゴミとして捨てようとしたことがあったらしいのだ。だが、その直前にぴんくりんくの太田耕耘機さんが来たので、引き取ってもらったのだという。
太田さんに連絡してみると、90冊ほどのシナリオを保管しているとのことだった。
その中に『男ごろし 極悪弁天』のシナリオがあった。

『極悪弁天』のシナリオを読んで分かったことを記しておこう。
まずは、スタッフ、キャストなどの基本データ。

脚本タイトル:不明(表紙が赤いテープで補強されているため、読みとることができない)
公開タイトル:『男ごろし 極悪弁天』
公開年:1969年
制作:日本芸術協会(向井寛のプロダクションだが、実際には何もしていないとのこと。関東映配の仕事をしたがっていた向井寛に頼まれて、『極悪弁天』の制作をやったということにしたらしい。)
配給:関東映配
監督:渡辺護
脚本:宗豊(石森史郎。ただし、第一稿は石森の弟子が書いたのではないかとのこと)
撮影:池田清二、照明:栗本和雄
出演:香取環、国分二郎、青山美沙、野上正義、津崎公平、吉田純、尾崎啓介

次にあらすじ(フィルムが残っていないので、少し詳しく紹介することにしたい)。

街道を行く盲目の少女・みき(青山美沙)は、権造(吉田純)と三次(尾崎啓介)につかまって、林の中につれこまれる。
それを助けたのが、弁天の加代(香取環)だった。
加代「娘さん、ここは助平おおかみのけものみちだよ。早くおいで」
加代はみきの手をとってその場を去る。

その夜、加代は熊井組の賭場にいた。
壷振りの留吉が壺を上げようとしたそのとき、「お待ち!」と鋭く加代の声が飛ぶ。
加代はサイコロをドスの刃先で叩ききり、イカサマを見抜く。
熊井「女だてらにいい度胸だ……こっちは受けて立つぜ」
殺気だって斬りかかる熊井(木南清)の子分たち。加代は熊井の肩口にドスを突き立てた。
旅籠に戻った加代はみきにすぐに旅立つ支度をするように言う。

翌日、加代は川の水を両手に受けて、みきに飲ませる。
あんた、いくつ?と訊く加代に、みきは十八と告げる。
加代「十八か……生きてりゃ妹と同い齢だ」「(妹は)あたしがね、七ツの時死んじまった。貧乏のどん底でね、病気になっても医者にもみて貰えないでね」
そのとき、加代は向こう岸に男が一人立っているのに気づき、立ち上がる。
対岸にいたのは熊井組の用心棒・英二郎(国分二郎)だった。
英二郎「……あんたをきる」「おれのドスがあんたの肌に触れた時は……地獄に直行している……熊井の親分が待ってる地獄へな」
加代「判った……きられてもいいわ」「その代り、条件がある」「あの娘を……松本まで連れて行くまで待てない?」「(松本に)あの娘の爺イさまがいるんだ」
英二郎「しゃばでひとつ位は功徳になる事をしてくたばりてえだろう……判った」

松本に着く加代とみき。だが、二人を待っていたのは、みきの祖父の墓だった。
「私……どうしたらいいか……」「私……死んだほうが……」と言うみきの頬を打つ加代。
みきが顔をおおって泣いているところに、三田村(野上正義)がやって来る。
三田村「あの、僕……悪いとは思ったんですが……貴女達のお話をすっかり聞いてしまいました」
眼科医の書生をしている三田村は、みきの目に関心があった。
三田村「もし、先生の診察で手術を受けて眼が見えるようになるんだったら、どうでしょう、手術させたら……」
みきの目が治ると知った加代は、手術費用をつくるために松本を出る。

萩江田の親分・猪之助(津崎公平)の賭場にやって来る尼僧姿の加代。
加代「春妙尼と申します……末席にて、遊ばせて頂きとうございます」
猪之助は壺ふりの吾一に目配せする。
加代から金をまきあげてひそかに笑う猪之助。
だが、壺をふろうとして、吾一はギョッとする。加代の膝が開いて白いももの奥がチラッとのぞいたのだ。
手もとが狂ってしまう吾一。結果は加代の勝ち。その後も加代は勝ち続け、大金を手にする。
加代が夜道を歩いていると、猪之助の子分たちが追いかけてくる。
子分たち「親分がサシで話をしたいと、そう言ってるんだがな」「温和しく来たほうがいいな。俺たちだって恨みつらみのねえあんたを斬りたかねえ」

猪之助の屋敷の奥座敷。猪之助は加代に酒をすすめながら言う。「身は黒染めの衣に包んではいるが、その体は存分に男の精気を吸いつくしている……この眼にはハッキリそう見えるがな」
猪之助はぐいと加代の手をとる。
加代「お離しを」
猪之助「やらずぶったくりか……賭場じゃたっぷり銭をせしめやがったくせに――」
するとそのとき、座敷に英二郎が入ってくる。
猪之助「誰だ、てめえ」
だが、英二郎はそれには答えず、取り押さえようとする猪之助の子分たちを払うと、加代の手首をつかみ、外へ出て行ってしまう。

英二郎は加代を木賃宿に連れていく。
加代「魂胆は判ったよ」
英二郎「そんなら話は早え……脱いでもらおうか」
加代「あんたもやっぱりただの男ね」
英二郎「ああ……人一倍慾の深い男さ……美人を見りゃ心を奪われるし、抱いてもみたくなる」
木賃宿の布団の上で交わる加代と英二郎。

翌朝、英二郎は加代からみきの手術のことを聞く。
英二郎「それにしても、変った女だよ……赤の他人をまるで血肉をわけた妹のように……危ない橋を渡りながらせっせとゼニを送ってるなんて……余ッ程の聖人君子か……大バカだ」
加代「ま、女だてらに極道の限りを尽くしたからね……この辺で罪ほろぼしの真似事をしてみたくなったのさ……こんな事をしても、私は地獄にしか行けない体なのにね……ふん……全く、呆れる程の大バカさ」
英二郎「(ボソッと)大バカが二匹か……」

加代と英二郎は松本に戻ることにする。
だが、猪之助とその子分たち、それに三次が二人の行く手をふさぐ。
加代「斬られるもんかい。妹の手術を無事に見る迄は……くたばってたまるかい」
英二郎「春妙尼サンよ、誤解しないでくれ。俺はあんたを助けるんじゃねえ……めざわりな鼠を片づけるだけだ」
加代と英二郎は一人、二人、三人……と敵を倒し、ついに猪之助にとどめを刺す。
英二郎「すぐ松本へ行こう」「警察がすぐ俺達を手配するだろう。妹にあえなくなるぞ」

そして、松本――。街外れの材木置場のそばを歩いていた三田村の前に、加代が飛び出してくる。
三田村「手術は成功です」「それなのに、貴女は……何故、何故あんな人殺しを……」
加代「三田村さん……お願いがあるの」「お願い……あの娘をひと目見るだけでいいの……そうしたら私、自首するわ」
三田村「包帯を外すのは午後です。五時にここで待っていて下さい」
三田村が去ったあと、材木の陰から英二郎が姿を現す。
加代「汚いゼニだったけど……あの娘の眼が……澄んだ美しい眼が開くんだよ……」
英二郎「(頷き)娘にあったら自首するのか……そうはさせねえ、俺が斬る」
加代「いいわ、あんたに斬られて死ぬなら……思い残す事はもうないもの……」

翌日の材木置場。五時五分前。
英二郎「そろそろ現れる頃だ……さりげなくすれ違うんだ。その娘はあんたの顔を知らない……」
加代「(強く頷く)……」
道の向こうを注視する二人。
そのとき、三次と猪之助の子分がドスを手に背後から襲いかかる。
三次にわき腹を刺される英二郎。加代も猪之助の子分に胸のあたりを刺される。
それでも、英二郎と加代は敵を倒す。
英二郎「加代……」
加代「英……二郎さ……!」
二人、両手をさしのべるが、触れ合わないまま、地面に転がり……息絶える。

五時。道の向こうにみきと三田村が現われる。
三田村、材木置場の約束した場所に立つ。
みきは、向こうの家の庭に花が咲いているのを見つける。
みき「ね、見に行きましょう。いろんな花の名前教えて……」
「あ、ああ……」と怪訝に見まわす三田村。だが、加代の姿はどこにも無い。
みき「早く……」
促がされて歩きだしている三田村。振りかえりながら去って行く。
材木の積み重なった陰に――転がっている加代の死体……英二郎の死体……。 (終)
(なお、渡辺護さんの話では、ラストの待ち合わせの場所は材木置場から橋の上に変更したとのこと。また、橋の下に広がるすすきの原で、弁天の加代・英二郎とヤクザたちの死闘を撮ったと語っている)

『極悪弁天』のシナリオを読んで、まっさきに思ったのは、ええッ! 弁天の加代、死んじゃうの?だった。
なるほど、渡辺さんの映画で主人公が死んで終わりというものは他にもある。
第一作の『あばずれ』(65)も、第二作の『紅壷』(65)もそうだった。代表作の『(秘)湯の町 夜のひとで』(70)や、『聖処女縛り』(79)もそうだ。
そして、表向きの主演は秋吉久美子だけれども、実質的に役所広司が主演の『紅蓮華』(93)もそうだった。
しかし、シナリオを読むとき、こっちの頭の中にあったのは「弁天シリーズの第一作」ということだった。だから、『極悪弁天』のラストにはうろたえてしまったのだ。

もっとも、当時の関係者にも二作目をつくることにはとまどいがあったらしい。
『極悪弁天』のヒットで、映画館の館主たちから「続篇を!」と求められた関東映配の社長は、渡辺さんにおそるおそる訊いたそうである――「弁天、死んじゃったんだよね? 続篇、できるかな?」
結局、渡辺さんは続篇を撮ることになるのだけれども、そのときのことをふりかえってこう言っている。
「最後で死んだと思ったら、実は生きてましたってことで続くのは、映画じゃよくあることだからね。実にいいかげんなものなんだよ」
最近では北野武の『アウトレイジ2』がこれにあたるのだろうが……。

とはいえ、映画によくあるいいかげんさで、第二作『尺八弁天』がつくられたという証言には、ちょっと信じられないところがある。
弁天の加代の死を無視して、二作目をつくってよいというのであれば、また脚本を石森史郎に頼んでもよかったはずだ(石森史郎だって、きちんとした脚本家である)。
けれども、渡辺さんは大和屋竺に第二作のシナリオを頼んだ。これはどういうことなのだろう?

大和屋竺がシナリオを書き、若松孝二が撮った『処女ゲバゲバ』(69)で、星は屠殺人たちに撲殺されたと見せかけて、ボスたちに復讐をした。
しかし、大和屋さんは、自分がシナリオに書いた「撲殺されたと見せかけて」という展開に実は納得していなかったのではないか。
そんなふうに思ってしまうのは、シナリオにはない一シーンを大和屋さんが現場で書きたしているからだ。
死にかけの花子が意識を取り戻し、死んでしまった(と思われる)星と対話するシーン(「星の「おれ、もう人間じゃなくなったんだ」「おれ、死んじゃったんだ」という台詞がとても印象的だ)。
あのシーンを現場で書くとき、大和屋さんは「星は本当に撲殺されるべきなのだ。そうして、よみがえって地上から暴力を一掃すべきなのだ……」と考えていたのではなかったか。

渡辺さんは1969年の時点で『処女ゲバゲバ』を見ていない(この時点で渡辺さんが見ていた大和屋竺作品は、監督作では『裏切りの季節』(66)、『毛の生えた拳銃』(68)、脚本作では『殺しの烙印』(67)、『情欲の黒水仙』(67)くらいだ)。
けれども、渡辺さんは大和屋さんらしい奇想で、死んだ弁天の加代がよみがえることを期待していたのではないだろうか。

『極悪弁天』と『尺八弁天』のシナリオを比較して気づくのは、「地獄」という語の使い方のちがいだ。
『極悪弁天』の「地獄に直行している」、「地獄にしか行けない体」という台詞に比べると、『尺八弁天』の台詞は地獄の光景をイメージするように誘うものになっている。
たとえば、シーン5の本多の台詞「地獄へ行くにはまず高い所へ昇らなくっちゃならん。谷底に針の山が見えるしかけだ」がそうだし、シーン9の弁天の加代の次のような独白もそうだ。
「おみかけ通りです。仏さま。女極道にございます。人をあやめたことも一度ではありません。この手はもう洗っても落ちない血の海に浸っております。あなたさまのお教えどおり、極楽浄土は千万億土の遠くです。地獄におちて裂かれるのは覚悟の上……ですが、仏さま。お慈悲ですからせめて、せめてあのお方のお声なりとも、私の耳に届かせて下さいまし……」
また、シーン9(弁天の加代が救出されたあとの幻想シーン)では、弁天の加代の混濁した意識が感じ取ったものが映像となっている(ト書きには、「女体の悶え--誰か男の手が、加代の柔肌を優しく愛撫している」、「五百羅漢、浮かび上がる。/観世音菩薩の柔和な微笑がその向うにある」などとある)。
どう考えても、大和屋竺は、弁天の加代が臨死体験をくぐりぬけて、この世に帰還するところから本格的にドラマを始めようとしている、と思うのだが、どうなのだろう。

それに、渡辺さんもまた意識的に『尺八弁天』を弁天の加代が地獄からよみがってくるドラマとして撮ったのではないだろうか。
本多の「地獄へ行くにはまず高い所へ昇らなくっちゃならん」という台詞を生かそうとしてなのか、弁天の初登場カットは、屋根の上だった(ここに伊藤大輔の影響を見ることもできる)。
そして、シーン6~8は採石場に変更されていて(シナリオでは山小屋の中)、これが異様な雰囲気をただよわせていた。
ところどころに切り取られた石の直線的な輪郭が浮かび上がる巨大な洞穴の奥底で、弁天の加代が蝮の銀次たちに陵辱される――。
このシーンには、異界を画で見せてやろうという強い意思が感じられるのだが……。

2

渡辺護さんの話では、観客の反応を見ようと、『極悪弁天』を上映する映画館に行ったところ、向井寛と、当時、助監督だった稲尾実(深町章)がいたという。
向井寛は映画の出来に感心したらしい。稲尾実も『極悪弁天』に感動し(劇場内で拍手した)、その後、『尺八弁天』の助監督に志願したという。

ちょっと気になるのは、稲尾実の「『尺八弁天』より『極悪弁天』の方が面白かった」という感想だ(この感想は『喪服の未亡人 欲しいの…』の仕上げのときに、本人から直接聞いたことがある)。
渡辺さんによると、これと同じことを国分二郎(『極悪弁天』では英二郎、『尺八弁天』ではセイガクを演じている)も言っていたという。
二人の感想について、渡辺さんは半分冗談みたいな言い方で「あいつらは一般庶民だからさ、大和屋のホンのすごさが分からねえんだ」と言っている。
(普段、「映画は大衆娯楽」と言っている渡辺護が、急に「あいつらは一般庶民だからさ」と言いだすのは、どう見たっておかしいのだが……)

稲尾実と国分二郎の感想には考えさせられるものがあるだろう。
私たちは『尺八弁天』をひとに紹介するとき、「ヤクザ映画」、「任侠映画」の傑作というふうに言ってしまいたくなる。
けれども、本当にそれでいいのだろうか。「一般庶民」が「ヤクザ映画」や「任侠映画」に期待するような面白さを備えていたのは、『尺八弁天』ではなく、『極悪弁天』だったのではなかったか。
『尺八弁天』には、「ヤクザ映画」、「任侠映画」の枠からはみだしている部分があって、そこに魅力があるのではないだろうか。

『尺八弁天』は『極悪弁天』から何を受け継いだのか。そして、受け継いだものをどのように変奏していったのか。
渡辺護は大和屋竺に『尺八弁天』のシナリオを頼むときに、石森史郎が書いた『極悪弁天』のシナリオを渡したという(大和屋が完成した『極悪弁天』を見ているかどうかは不明。渡辺さんの話では「大和屋は若松プロ以外のピンク映画もよく見ていた」と言うのだが)。
大和屋さんは『極悪弁天』を読むとき、弁天シリーズを成立させるのに必要な要素は何かと探りながら読んだはずだ。
そのときに、大和屋さんはシリーズの構成要素は四つだと判断したのではないか。
つまり、(1)少女の救出、(2)復讐、(3)殺意と表裏一体の愛欲、(4)変装。

まずは、少女の救出について。
『極悪弁天』で、弁天の加代は盲目の少女・みきを松本まで送り、さらに彼女に目の手術を受けさせるのだが、みきを助ける理由を次のように語っている。
「十八か……生きてりゃ妹と同い齢だ」「(妹は)あたしがね、七ツの時死んじまった。貧乏のどん底でね、病気になっても医者にもみて貰えないでね」
『尺八弁天』でも、加代は、折檻をうけ、土蔵に閉じこめられたさよを救出する。が、『極悪弁天』とちがうのは、弁天の加代が過去について語る場面がないことだ。

けれども、大和屋竺は弁天の加代の過去がひとりでに分かるようにドラマをつくっている。
夜遅く、風呂に入るシーン25で、加代はさよに背中の刺青を見せながら語る。
「分ったでしょう。私は終い湯にしか入れない女なのよ。いつも他人様の眼が恐くてまともに顔も見られない女なの。もうこれ切り、私のことは金輪際忘れて頂戴」「偉くて強い女なら、こんな自堕落はしないはずよ」
このとき、加代はさよと少女だった頃の自分を重ね合わせている。
加代とさよ――よく似た響きの名前にしているところから見ても、大和屋が二人の間に分身関係を設定していることは明らかだろう(『荒野のダッチワイフ』でも、大和屋は分身関係にある登場人物に、コウ-ショウ、リエ-さえというふうに名前をつけていた)。
おそらく、さよが体験する身売りや折檻に近いことを加代も体験し、そうした悲惨な人生から脱け出そうと悪あがきしているうち、背中に刺青をいれ、ヤクザになったにちがいない。

復讐についてはどうだろう?
『極悪弁天』では、英二郎が賭場で親分を斬った加代に復讐しようとするが、『尺八弁天』では、弁天の加代が自分をヤクザたちに売り渡した刑事の本多に復讐を誓っている。
いや、加代の復讐の対象はそれだけではないだろう。
宿屋で、人買いの嘉助の腕を思いきりねじりあげながら、「(さよの父が受け取った金に利息をつけた分を)渋川でそっくり渡してあげる。それ迄はあの娘に指一本触れないと約束してくれ」と言って、階段下へと突き落とす場面。
加代が少女だった頃の自分とさよを重ね合わせているとしたら、ここでも復讐への意志は働いていると言えるのではないだろうか。
(もっとも、この場面は大和屋さんが書いたものではなく、渡辺さんが足した場面なのだが)

加代が復讐への意志をになったことで、『尺八弁天』での彼女と暴力の関係は、『極悪弁天』とは異なるものになっている。
『極悪弁天』のときの加代は、わが身とみきの将来を守るためにやむをえず相手を斬っていた。
だが、『尺八弁天』の加代は、復讐への意志に衝き動かされている。よりはっきり、暴力にとり憑かれた人間となっている。
ところが、ここが興味深いところなのだけれども、『尺八弁天』の加代は、シーン9で前回引用した「おみかけ通りです。仏さま。女極道にございます。人をあやめたことも一度ではありません。この手はもう洗っても落ちない血の海に浸っております」という独白に続けて、こんなことも言っているのだ。
「ああ、女だてらにこの極道……何度白刃の下でこのまま死のうと、死んで悪業の報いを受けようと思ったか知れません……ですが、仏さま……意地も伊達もございません。私はおぼろなあのお方の姿がこの世のものかどうか、ただそれだけが心にかかって……」

ヤクザが自分のあり方を否定するような台詞を言うのは、他の「ヤクザ映画」や「任侠映画」でも見られることだ。
けれども、『尺八弁天』の加代は、「仏さま……」と超越的な存在に向かって呼びかけている(ラストでも、加代は空を見上げて「仏さん……お慈悲ですからさあ」とつぶやく)。
また、「私はおぼろなあのお方の姿がこの世のものかどうか、ただそれだけが心にかかって……」と言うとき、加代は超越的な存在を探し求めているようにも見える。
『極悪弁天』の加代は、自分が生まれ育った貧しく悲惨な境遇を乗り超えようとして、結果的にヤクザとなった。
しかし、『尺八弁天』の加代は、ヤクザとなった自分自身をも乗り超えたいと思っているのではないだろうか。
暴力にとり憑かれた人間である自分を乗り超えたいという思いが、『尺八弁天』の加代の奥底にはあるのではないだろうか。

暴力にとり憑かれる一方で、そんな自分を乗り超えたいと願わずにはいられない。
このような矛盾は、大和屋竺が描いた他の登場人物にも見られるだろう(たとえば、『処女ゲバゲバ』(69年・監督:若松孝二)で、「もう人間じゃないんだ」と言う星や、『野良猫ロック セックス・ハンター』(70年・監督:長谷部安春)で、星条旗がはためいていたポールを撃って微笑むものの、次の瞬間、真顔に戻ってしまう数馬)。
けれども、「仏さま……」と呼びかけずにはいられないという点で、『尺八弁天』の加代の矛盾はもっとも大きいものだったのではないか。
おそらく、この矛盾が、『尺八弁天』を「ヤクザ映画」や「任侠映画」の枠からはみださせる原因となっていると思うのだけれども……。

3

殺意と表裏一体の愛欲について。
これは、『極悪弁天』では英二郎がになっていた。
英二郎に抱かれた加代が「苦しい……死ぬかと思った……」と言うと、彼はこう答える。「俺は人斬り英二郎と云われた男だ……あんたを殺る時は……ドスであの世に送ってやる」

『尺八弁天』ではどうか。
殺意と表裏一体の愛欲は、二人の男がになっている――つまり、蝮の銀次とセイガク。
ここが『尺八弁天』の興味深いところだろう。
大和屋竺には、蝮の銀次を弁天の加代の敵、セイガクを味方というふうにはっきり分けてドラマをつくることもできたろう。
となると、殺意と表裏一体の愛欲は、殺意と愛欲の二つに分割した方がいいはずだ(切り離したとたん、愛欲は恋愛と呼んだ方がいいものに変わるだろうが……)。
そうして、前者を蝮の銀次に、後者をセイガクに割り当てればいいわけである。

ところが、大和屋はそうしなかった。
セイガクは弁天の加代と二度交わるけれども、二度とも意識を失った彼女と交わろうとしている(さすがに、二度目は、交わる直前に加代が意識を取り戻すのだが)。
加代の合意を求めようとしない点で、セイガクは蝮の銀次と同じだと言える(二人は分身関係にある)。二人とも、暴力にとり憑かれた人間で、女性と性的関係をもつときには、犯す形を選んでしまうのである。

では、セイガクと蝮の銀次を区別するものは何か?
それは、刺青をどう見ているかということだろう。
蝮の銀次は、加代の背中の刺青を剥いで、彼女を殺した証拠としようとする。つまり、銀次にとって、刺青は誰であるかを示す目印にすぎない。
けれども、セイガクはちがう。シーン33で、彼は加代に自分の背中の吉祥天の刺青を見せながら、こう言う。
「お前を抱こうなんてさいしょは思っちゃなかったんだが、見たがさいご、ずい分欲深な弁天さんじゃねえか、抱かなきゃ地獄に落とすぞとこう仰言るんだ」
「こう血が騒ぐのも、俺のせいじゃねえ。お前のせいでもねえ。なあ分ったろう?」
「俺あ信じる。こいつあ仏の慈悲って奴だ」
「ああ、殺せ。構うこたあねえ、何をやっても背中にしょった吉祥天がいる限り地獄へ堕ちるこたねえのだ――とまあ、俺は信じる」

セイガクにとって、刺青は単なる目印ではない。
刺青は、人間を超えるような何ものか、人間を導くような何ものかがいることを告げるもの――言い換えれば、超越的な存在の徴候なのだ。
(多くのヤクザ映画で、刺青はヤクザであることを示す目印でしかないことを考えると、セイガクが言っていることはヤクザ映画の枠からはみだすものとなっている)
おそらく、セイガクもまた、暴力にとり憑かれる一方で、そんな自分を乗り超えたいとひそかに願っているのではないか。
そして、弁天の加代はセイガクの内に自分と同じ願いがあることを感じ取った。
だから、交わるときに「やっと会えたんだわ!」とつぶやくことになるのだろう。

次に、変装について。
『極悪弁天』で、加代は賭場に行くとき、尼僧に変装していた。
『尺八弁天』ではどうか。大和屋はシーン30でセイガクについてこう書いている。
「マントに学帽、テキヤで云うところのセイガク――多くはインチキ眼薬を売る――が立っている」

だがそれにしても、セイガクとは何者なのだろう。
加代と交わるシーン33で、セイガクは流れ者のヤクザとしてふるまっている。
しかし、シーン48では、刑事をやめて紡績工場の社長となった本多からの依頼を受けている。
「私の工場にさいきん不穏な動きがめだってきておるので、その背後関係を洗って欲しいのだ。出来ることなら、めぼしい人物を突きとめて消して貰いたい」
どうやら、セイガクは本多に雇われているらしい。
しかも、「危険分子の動きは大体察知しております」と答えているのを見ると、ただのヤクザではなさそうである。

本多の「弁天というのは、本当は何者かね。無政府主義者かね」という問いかけに、セイガクは「かも知れねえ」と言って笑いだす。
さらにシナリオを読んでいくと、セイガクは「貧民に根をおろした諜報機関」について語りだし、いきなりこんなことを言う。
「本多の旦那。そういう犬みてえな野郎がいたんだよ。その諜報何とやらのな」「俺あそいつをぶち殺してやったんだ。そして身代りをやったのさ。ずい分昔の話だが」

セイガクは元アナキストだったのだろうか。
彼は諜報機関に潜りこみ、テロの機会をずっと待っていたのだろうか。
シナリオはセイガクの真の姿について何も語らない。
本多の「き、き貴様……誰だ?」という問を、セイガクは「俺? 俺あ俺だ。流れ者の俺だ。人殺しの俺、悪道の俺……」と言ってはぐらかすばかりだ。
セイガクについては、変装に変装を重ねる正体不明の人物ということくらいしか分からないのである。
(だが、セイガクにとって、正体などどうでもいいのだろう。彼もまた弁天の加代と同じく、暴力にとり憑かれた自分を乗り超えたいと願う者なのだから)

一体、大和屋竺はセイガクのような登場人物をどのようにして思いついたのだろう?
『尺八弁天』の前年(69年)には、吉田喜重の『エロス+虐殺』があったし、中島貞夫の『日本暗殺秘録』があった(ちなみに、『日本暗殺秘録』は未見。笠原和夫のシナリオしか読んでいない)。
大和屋はこれらの映画に触発されるようにして、アナキストくずれのヤクザを思いついたのだろうか。

いや、もっと身近なところから大和屋は影響を受けていたのかもしれない。
というのも、鈴木清順が1972年に次のようなことを語っているからだ。
「むかし私が未だ本来の仕事をしていた頃、やくざやギャングのねたに尽きて、世の無頼派を探しているうちに見つけたのがアナキストからテロリストに変わっていったギロチン社の連中だった」(『夢と祈祷師』の「九月は革命の月」)
ひょっとしたら、セイガクは、具流八郎が果たせなかった夢の断片だったのではないだろうか。

4

だらだら書いてきたこの覚え書きもそろそろ終わらせようと思う。
そこで最後の回は、渡辺護さんが撮影で使用したシナリオを手がかりに、『尺八弁天』の創作の現場にちょっとでも近づいてみたいと思う。

私たちは映画の面白さについて書くときに、ある一人の作者(たいていは監督)がその面白さをねらってつくったのだというふうに論じてしまう。
そういう論じ方に慣れているし、分かりやすいからだ。
しかし、この論じ方だと、作者が全知全能の神さまみたいになってしまい、現実の創作の現場から遠ざかってしまう。

この覚え書きを書くにあたって、私は三つの固有名詞(渡辺護、大和屋竺、『極悪弁天』)をあげて、一人の作者を設定しないように注意してきた。
『極悪弁天』と『尺八弁天』の関係についてはある程度詳しく見てきた。
となると、気になってくるのは、『尺八弁天』の創作の現場で、渡辺護と大和屋竺がどのように作業分担をしたのかということである。
だが、この問に迫っていくのはなかなか難しい。渡辺さんに質問をすれば、それでなんとかなるというわけでもなさそうなのだ。

渡辺さんは、弁天の刺青と吉祥天の刺青が互いに引き合うというアイデアは、シナリオの打ち合わせのときに大和屋竺から出たものだ、と語っている。
渡辺さんは嘘をつこうなんて考えてはいないはずである。けれども、事実を単純化して語っているぶんだけ、話が嘘になっている。
打ち合わせのとき、渡辺さんはいつものように脱線し、時代劇のこと(伊藤大輔や山中貞雄など)をしゃべりまくったという。
大和屋さんも渡辺さんの話を面白がっていたようで、マキノ雅裕のことを熱心に聞いたらしい。

となると、打ち合わせのときに、『丹下左膳』が話題になってもおかしくはない。
二人とも伊藤大輔が撮ったもの(『新版大岡政談』、『丹下左膳』)は見てなかっただろうが、マキノ雅裕が56年に撮った『丹下左膳』は見ていたはずだ。
だとしたら、刺青が互いに引き合うというアイデアは、『丹下左膳』に出てくる二つの妖刀、乾雲・坤龍をヒントにしていると考えられないだろうか。
つまり、大和屋竺は単独で刺青のアイデアを思いついたわけではなく、渡辺護の中にある映画の記憶を活用しながら発想したということになる。

渡辺さんは19年前のインタビュー「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」(『ジライヤ別冊 大和屋竺』)の中でこんなふうに語っている。

「物語の後半、弁天の加代が囚われの身の少女を助けに行き、蝮の銀次ってヤクザを切る。セイガクには離れたところにいるのにそれが分かるんだよね。「蝮が一匹……」と言って尺八を吹く。すると、今度は弁天が「ああ、そこだね、今行きますともさ、吉祥天のお人……」と言う。遠く離れているのに気持ちが通じ合ってしまうというのかな。ああいうところが大和屋ですよ。大和屋ちゃんは普段は難しいことを言うけれど、本当は超ロマンチストなんだよね」

実はここにも嘘がある。
渡辺さんが撮影で使ったシナリオを読んでみると、「蝮が一匹……」にあたる台詞は印刷された部分の中にはない。
この台詞はシナリオ上部の余白に書かれた書きこみの中にある(正確には「蝮が一匹……」ではなく、「一匹……フフフ……」なのだが)。
「一匹……フフフ……」は、大和屋竺ではなく、渡辺護の創作なのだ。
だが、興味深いのは、渡辺さんが「遠く離れているのに気持ちが通じ合ってしまうというのかな。ああいうところが大和屋ですよ」と言っていることだ。
渡辺さんは大和屋の創作だと本気で思いこんでいるようなのである。
これは一体、どう受け取ったらいいのだろうか。

『極悪弁天』のシナリオの書きこみと、『尺八弁天』のシナリオのそれとを比べてみると、いくつか興味深いちがいを見つけることができる。
『極悪弁天』のシナリオには、定規を使ってカット割りが書かれている。渡辺さんにしては珍しいことだ(たいていは、定規など使わず、大急ぎで線を引っぱっている感じ)。
それに、芝居の大幅な書き直しがまったくない。いくつかの台詞を書き直したり、カットしたりしているだけである。
これに対して、『尺八弁天』は、芝居の書き直しが多い。正確に言うと、セイガクが本多と会う後半(シーン48以後)から、芝居の書き直しが急に増えてくるのである。

『極悪弁天』を撮るとき、渡辺さんは自分の仕事を「このシナリオをどうやって画にするか」というふうに規定していたのだろう。
つまり、渡辺護と石森史郎の間では、作業分担がはっきりしていたと言える。
しかし、『尺八弁天』では、監督-脚本家の境界が、不安定というか溶解してしまっている。
これは、渡辺さんが大和屋竺のシナリオにのっていなかったということではないだろう。
渡辺さんは、「大和屋ちゃんの書いてきたシナリオを読んだときにはふるえたね」と言っているくらいなのだから。
たぶん、渡辺護は大和屋竺の『尺八弁天』から刺激を受けて、「もっと面白くならないか」「もっとすごいものにならないか」という思いに衝き動かされていたにちがいない。
ただし、ここで注意すべきなのは、渡辺さんが「おれ流」に大和屋竺の芝居を書き直したとはかならずしも言えないことだ。

阿部嘉昭さんは、『私説・日本映画の60年代 68年の女を探して』(論創社)の中で『尺八弁天』を論じている(第5章「分身、そして「性交は見えない」ということについて」)。
とてもすぐれた論考なのだけれども、p145にこんなことが書いてある。

「弁天の加代がさよの救出のため、本多邸の蔵に入ってくるシーンがあったでしょう。そのとき彼女は人買いの嘉助にこう宣言する――《足を叩き斬ってやろうか?――二度と人買いができないように――足がなくても這ってゆくか?》。この科白、『四谷怪談』民谷伊右衛門の「首が飛んでも動いてみせるわ」という名科白の、たぶん大和屋的変型です。むろんこの伊右衛門の科白は大和屋が好きだった花田清輝が頻繁に引用していた科白であったから、大和屋はその科白で鶴屋南北のみでなく花田の幻をもまた、画面に呼びだそうとしたのかもしれません」

ところが、シナリオを読んでみると、阿部さんが言及している加代の台詞は大和屋竺ではなく、渡辺護が書いていることが分かる(シナリオの余白に書かれた台詞は、正確には「足を刈りとってやろうか。二度と人買いの出来ないように」「足がなくても這って行く?」)。
しかし、この台詞が大和屋らしいこともたしかなのだ。

(注:阿部嘉昭さんの論考が事実とちがっていても、別に価値が下がるわけではない。そもそも、評論とは、新たな視点で作品を見たらどうなるのかを書くものではないだろうか。そういう意味で、『尺八弁天』を『四谷怪談』や花田清輝と結びつける阿部さんの見解は興味深いものだと言える。それに、阿部さんの評論には、実際の作品を論じているというより、この世に存在しない作品を論じているような不思議な面白さが常にある。阿部さんの評論は未来の表現のためにあるものなのだ)

渡辺さんは向井寛の名前で『修道女―秘め事―』(78)を撮るとき、向井寛ふうに演出したと言っている。
また、初めてコメディーを撮ったとき(たしか、『セックス作戦 色の道乱入』(70))のことをふりかえって、山本晋也のコメディーをやってみたかった、と回想している。
小水一男の緊縛ものの脚本については、「女の体は権力より強いがテーマだった」と語っている。だとしたら、『激撮! 日本の緊縛』(80)、『暴行性犯罪史 処刑』(82)などは、若松プロふうの反権力ピンクを撮ってみたということになるのではないか。
つまり、『尺八弁天』の直しについては、こういうふうに考えてみてはどうだろうか――渡辺護は大和屋竺を演じるようにしてシナリオの直しを書いた、と。

渡辺さんは「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」の中で、「『尺八弁天』はおれへのラブレターですよ」と言っている。
とするなら、渡辺さんの直しは、「大和屋へのラブレター」というふうにも読めるのではないだろうか。
渡辺さんは大和屋竺の才能を高く評価していたし、愛していたから、大和屋になりきって直しを書いた。
その結果、渡辺さんの記憶の中では、自分と大和屋竺の境目がなくなってしまった。
それで、自分の書いた直しについて「ああいうところが大和屋ですよ」と言ってしまったのだろう。

長くなってしまった。そろそろ、この覚え書きも終わらせるべきだろう。
最後に参考資料して、シーン48からシーン56までの大和屋竺のシナリオと、渡辺護の直しを載せておきたい。
この資料から、『尺八弁天』の創作の現場をほんの少しでも感じ取ってもらえたら、うれしいのだけれども。

参考資料:大和屋竺『おんな地獄唄 尺八弁天』シナリオと渡辺護による直し(シーン48~シーン56)

(大和屋竺のシナリオ)
48 本多邸・応接間
ソファにゆったりとくつろいでいる本多。
本多「ごろつきどもとは相変らずつき合っているのか?」
「むろん」
答えた男はセイガクである。
本多「お役目とは云え、御苦労なことだ。所で君に来て貰ったのは、私の工場にさいきん不穏な動きがめだってきておるので、その背後関係を洗って欲しいのだ。出来ることなら、めぼしい人物を突きとめて消して貰いたい」
セイガク「危険分子の動きは大体察知しております」
本多「どの程度のものかね」
セイガク「爆弾を使用して工場を爆破する位は朝飯前……」
本多「本当かね」
セイガク「個人テロを企む者もかなりいます」
本多「(不安に笑い)……じつはその個人テロのなり損いで、君にも序でに頼みたい事があるんだよ」
セイガク「分ってます」
本多「ほう」
セイガク「弁天のお加代」
本多「どうしてそれを?」
セイガク「この耳は地獄耳ですぜ」
本多「弁天というのは本当は何者かね。無政府主義者かね」
セイガク「かもしれねえ」
本多「えっ?」
セイガク「ハハハ……」
ゲラゲラと可笑しそうに笑う。

(渡辺護の直し)
48 本多邸・応接間
ソファにゆったりとくつろいでいる本多。
本多「弁天の始末は?」
「つきました。この通りで」
答えたのはセイガク。
切り取った髪の束を手渡す。
本多「フム……」
セイガク「首根っこに一発。倒れた所を側へ寄って胸乳に二発。それで仏になりました」
本多「よくやった」
本多、髪の匂いを嗅ぎ、踏みにじる。
本多「出来ることなら、背中の皮をはいでもってきて貰うんだったな。見事な彫り物だそうだ」
セイガク「へえ……そうでしたか」
本多「知らなかったのか?」
セイガク「一向に……」
本多「残念なことをしたな」
本多、札束を手渡す。
セイガク「何しろあっしは犬ですから。色メもきかねえ盲ら犬で」
本多「その犬の鼻を少しきかせて貰いたい。私の工場にさいきん不穏な動きがめだってきておるのでな」
セイガク「危険分子の動きは大体察知しております」
本多「どの程度のものかね」
セイガク「爆弾で工場を爆破する位は朝飯前……」
本多「本当かね」
セイガク「個人テロを企む者もかなりいます」
本多「(不安に笑い)弁天の加代も考えようによってはその類いだったかな」
セイガク「かもしれねえ。ハハハ……」
ゲラゲラと可笑しそうに笑う。

(大和屋竺のシナリオ)
49 町の通り
スタスタと歩いている加代。
物陰にひそみ、息を殺してドスを抱いている銀次。
ダッと突きかかる。
銀次「貰った!」
バシュッ――。
加代、身を沈め、すいと抜けて後も見ずに歩いてゆく。
銀次、割られた胴から血をドッと吹き出して倒れる。

(渡辺護の直し)
シーン49の直しはなし

(大和屋竺のシナリオ)
50 本多邸・応接間
汗をしきりに拭う本多。
本多「で、その、南部機関というのは?」
セイガク「貧民にまで根をおろした諜報機関……とだけ云っておきましょう。ところでこの末端に生きる者はただ地獄耳を持っているだけじゃない……」
セイガク、いきなり尺八をとり出し吹き出す。
本多「……」
呆っ気にとられてみつめる。
普化宗の荘重な調べ、陰々とひびきわたる。

(渡辺護の直し)
50 本多邸・応接間
汗をしきりに拭う本多。
本多「相変らずごろつき共とつき合っているのかね?」
セイガク「むろん。ところでこの末端に生きる者はただ地獄耳を持っているだけじゃない……」
セイガク「一匹……フフフ……」
セイガク、呟いて笑う。
本多、けげんそうに、
本多「どうした?」
セイガク「なあに、ドジな長虫のこってす」
本多、しきりに汗をぬぐう。
本多「今夜は蒸すな」
セイガク「全くで。おまけにあの犬の遠吠えだ」
本多「(耳をすます)きこえんが」
セイガク「(笑う)旦那にはきこえねえ。そりゃそうさ」
本多「……」
セイガク「ひとつこっちも吠えてやろう」
セイガク、いきなり尺八をとり出し吹き出す。
本多「……」
呆っ気にとられてみつめる。
普化宗の荘重な調べ、陰々とひびきわたる。

(大和屋竺のシナリオ)
51 夜の道
夜空を仰ぐ弁天の加代。
加代「ああそこだね。今行きますともさ、吉祥天のお人……」

(渡辺護の直し)
シーン51の直しはなし

(大和屋竺のシナリオ)
52 土蔵の中
伝八「頑張れ。もっとこっち……そうだ、もうちょっと……」
不自由なからだを芋虫のようにもだえて、歯を使い、さよの縄目を解いている伝八。
さよ「私も入れるんだ……お姐さんみたいにきれいな刺青を……背中にねッ」
伝八「く……そら、解けたぜ、おさよちゃん」

(渡辺護の直し)
シーン52の伝八の台詞をカット。

(大和屋竺のシナリオ)
53 廓・土蔵の前
嘉助の頬をヒタヒタ打つ白刃。
嘉助「えええ……」
嘉助、腰を抜かす。
加代「開けな」
嘉助、ブルブル震えて錠前を外す。
中へ追いこむ加代。

(渡辺護の直し)
53 廓・土蔵の前
嘉助の頬をヒタヒタ打つ白刃。
嘉助、腰を抜かす。
加代「足を刈りとってやろうか。二度と人買いの出来ないように」
嘉助「助けてくれ!」
加代「足がなくても這って行く?」
嘉助「この通りだ!」
拝む。
加代「開けな」
嘉助、ブルブル震えて錠前を外す。
中へ追いこむ加代。

(大和屋竺のシナリオ)
54 同・中
半ばの縄をじぶんたちで解いた二人。
伝八「誰でえっ! おう、弁天の!」
さよ「お姐さん!」
さよ、しがみつく。
加代「さよちゃん!」
伝八「姐御。頼む! 俺に、盃をくれ」
加代「三ン下。このこを頼んだよ」
ポイと分厚い財布を伝八に投げる。
嘉助、ウアアア……と叫んでとび出し、逃げてゆく。
伝八「姐御……」
笛の音が近い。

(渡辺護の直し)
54 同・中
半ばの縄をじぶんたちで解いた二人。
伝八「おう、弁天の!」
さよ「お姐さん!」
加代、背を向けてこらえる。
加代「おさよちゃん。ね。こうなんだよ。私っていう極道のやることったら……許しとくれね」
さよ「お姐さん……」
加代「もう呼んじゃいけない。お姐さんなんて」
さよ「いや!」
加代「私はただ拾い物を届けにきただけ」
加代、かんざしを落とす。
笛の音が近い。

(大和屋竺のシナリオ)
55 応接間
尺八を吹きやむセイガク。
セイガク「本多の旦那。そういう犬みてえな野郎がいたんだよ。その諜報何とやらのな」
本多「……な、なに?」
セイガク「俺あそいつをぶち殺してやったんだ。そして身代りをやったのさ。ずい分昔の話だが」
本多「き、き、貴様……誰だ?!」
セイガク「俺? 俺あ俺だ。流れ者の俺だ。人殺しの俺、悪道の俺……」
セイガク、南部式軍用拳銃をひき抜く。
本多「ゲッ……」
外で、
嘉助「大変だあッ……来る! 来る! こっちへ来る!」
セイガク「俺あもう、てめえに飼われる犬じゃねえ」
ピタリ、本多の胸板を狙う。

(渡辺護の直し)
55 応接間
尺八を吹きやむセイガク。
セイガク「本多の旦那。永えつき合いだったな」
本多「なにを云うんだ今更。ま、今後とも宜しく頼んだぞ。君の様な有能な……」
セイガク「犬! その犬の餌は今日限りにして貰いてえ」
本多「な、なに?」
セイガク「旦那の背中には何が彫ってあるんだ?」
本多「……」
セイガク「何も? まっ白だ? へえ……そいつあいいや。なめして的に使わせて貰おうか」
セイガク、南部式軍用拳銃をひき抜く。
本多「ゲッ……」
外で、
嘉助「大変だあッ……来る! 来る! こっちへ来る!」
ピタリ、本多の胸板を狙う。

(大和屋竺のシナリオ)
56 本多邸・庭内
屁っぴり腰で刀を突き出す一同を尻めに、加代、
加代「引っこんで下さい! この家の主人に用です!」
「だあッ!」
二三人、束になってかかり、忽ち倒される。
血しぶき浴びて立つ加代。
屋内に銃声が何発も轟く。
加代「アッ……」
中へ駈けこむ加代。
加代「ちきしょう……」
本多、朱に染まって倒れている。
加代「どこにいるのよ、あんた!」
「逃がすな!」
どっとと追いかける稲荷の乾分たち。
加代、懐刀を振るいバタバタ倒す。
加代「出てこないか吉祥天のお人! 私のせなをお忘れかえ?!」
加代、虚しくなり、危うくなる。
稲荷「叩っきれ! それ押せ!」
銃声がその度に響いて乾分たちがコロコロ倒れる。
セイガク「おい、弁天。もう呼ばねえでくれ」
硝煙にまぎれて、尺八を握ったセイガク、ちらと加代の前に現れる。
加代「あんた!」
尺八が密集する乾分たちの頭上で爆発する。
何も見えなくなる。

(渡辺護の直し)
56 本多邸・庭内
屁っぴり腰で刀を突き出す一同を尻めに、加代、
二三人、束になってかかり、忽ち倒される。
血しぶき浴びて立つ加代。
屋内に銃声が轟く。
加代「アッ……」
どっとと追いかける稲荷の乾分たち。
加代、懐刀を振るいバタバタ倒す。
加代「出てこないか吉祥天のお人! 私のせなをお忘れかえ?!」
加代、虚しくなり、危うくなる。
稲荷「叩っきれ! それ押せ!」
銃声がその度に響いて乾分たちがコロコロ倒れる。
吹きとばされた本多、セイガクに追いまくられて出てくる。
本多「頼む!」
稲荷「てめえ! 一宿一飯の恩を忘れやがったのか!」
セイガク「ああ、忘れた」
ヤロウ! つっかかる乾分にドカッと火が吹く。
セイガク「弁天! 存分にやんな」
本多、蹴りとばされる。
加代「恩にきるよ吉祥天のお人!」
本多、ギラリ、白刃を握り立つ。
この対決を巡り、稲荷一家との立ち回り、セイガクの弾丸の尽きるサスペンス等、よろしくあって――
本多、血煙を上げて倒れる。
セイガク「おい、弁天。もう呼ばねえでくれ」
硝煙にまぎれて、尺八を握ったセイガク、ちらと加代の前に現れる。
加代「あんた!」
尺八が密集する乾分たちの頭上で爆発する。
何も見えなくなる。