『谷ナオミ 縛る!』について(井川耕一郎)

(以下の文章は2004年に書かれたものです)

映画を見終わってちょっとしてから思い出したことがあります。能面って、それを顔につけて演じるためにあるものじゃなかったっけ? 『谷ナオミ 縛る!』は、そんな能面の正しい使用法をきれいさっぱり忘れさせ、映画を見るお客さんを別世界のおとぎ話へと、あっというまに連れ去ります。そこがすごい。

考えてみれば、この映画には三、四人の登場人物しかいないのです。髪型や衣裳がどこか『美味しんぼ』の海原雄山みたいな能面師の兄・鶴岡八郎。その弟で同じく能面師の下元史朗。そして、鶴岡八郎の妻で下元史朗の幼なじみでもある谷ナオミ。(この他に鶴岡八郎に縛られる女中などがいるのですが、顔と名前が一致しません。すみません。) たったこれだけの登場人物で一つの世界が成り立っている。しかもこの世界の外に一般社会があるなんて信じられないというのが、この映画の不思議な魅力です。低予算映画のお手本みたいに思えます。

ストーリーはこんな感じです。 能面師の兄は弟の打つ能面が気に入りません。「お前の面は精巧だが、血が通ってない!」そして、兄は弟の前で女中を縛って犯しながら言います。「見ろ、これが生きた女の顔だ!」(SMシーンを入れるためのムチャクチャな理屈ですが、なぜか見ていると、強引に説得されてしまいます) 兄に言われなくても、弟には自分の打つ面のまずさは分かっているのです。なぜなら、弟が愛しているのは、兄の妻となった幼なじみの谷ナオミだから。でも、それは許されない恋です。それだから、自分でも納得のいく能面をつくることができない。 弟のその気持ちを察した谷ナオミは、いい仕事をさせてあげたいと、弟の前で裸になり、縛られ、能面のモデルとなります(SMシーンはあるけれど、結局、二人はセックスはしないという設定です)。 こうして弟は兄も思わずうなるようなすぐれた能面をつくることができた。けれども、その後、兄は妻と弟の仲を疑い、谷ナオミを斬り殺し、自分も腹を切って死んでしまいます。(以上の物語は、成長した娘(谷ナオミの一人二役です)が年老いた下元史朗に話を聞くという形で映画の中で展開します)

いくつか強く印象に残っているシーンがあります。 たとえば、弟の下元史朗に「ぼくも義姉さんも兄さんの言う通りにしなきゃいけないんだろ」と言われた直後のシーン。谷ナオミは下元史朗の打った面を手にして、さっき言われた言葉の意味の重さをじっと噛みしめています。そこに幼い娘がやって来て、鬼ごっこしようとせがむ。 で、谷ナオミは能面を顔に押し当てて鬼ごっこを始めるのですが、ふと立ち止まってしまう。すると、能面がかすかにふるえて、横から見ると、面の下で谷ナオミの目から涙が一すじ流れ落ちるのが見える。 この能面の使い方、どこか遠い昔のサイレント映画を思わせる味わい深いものです。けれども、何か変なのです、この鬼ごっこのシーンは。 一見、このシーンは「仮面の下の本心」みたいなことをやろうとしているように見えます。でも、能面の下の顔が谷ナオミというのがひっかかるのです。だいたい、谷ナオミに「本心」が演じられるでしょうか?

小沼勝監督は『谷ナオミ——虚構(ロマン)に生きる女』というエッセイの中でこう書いてます。 谷ナオミの表情から過去の環境を読み取ることは難しく、つまり過去を全く拒絶したところから女優谷ナオミをスタートしているともいえる。 己れの日常を全否定しなければ次へ進めなかったような出来事が幼児又は少女期にあったに違いないのだ。その事柄はナゾであるが、彼女の演技には重要な関係を持っていると考える。 最近の女優は日常感覚(生活体験)の延長で類推して演技するのが普通だが、ナオミの場合は型をかたっぱしから覚えていったか台本を意味で分析し頭でつくったような演技が多い。 ということは、『谷ナオミ 縛る!』の鬼ごっこのシーンは、「仮面の下の本心」ではなくて、「仮面の下も仮面」だったということになります。というより、仮面の上に仮面をのせていく面白さが、このシーンの面白さだと言えるのではないでしょうか。

渡辺護監督はSMなんか趣味じゃないから撮るのはイヤだと、最初、この谷ナオミ主演の企画を断っていたそうです。たぶん、自分の日常感覚の延長でとらえられないものはイヤだということなのでしょう。けれども、断りきれなくて、撮ることになった。 そのとき、渡辺監督はSMをまったくの虚構ととらえ、虚構の上に虚構をつみかさねて、ドラマの激しさを出そうと狙ったのではないでしょうか。だとしたら、谷ナオミと能面という組み合わせほど、狙いにぴったりのものはないでしょう。

そういえば、谷ナオミと能面の話に関係して気になるシーンがあります。たしか、映画の後半で、能面をつくっている最中に、下元史朗がうつらうつらするところがあります。そこで一瞬、能面のイメージが映るのですが、何とそれが能面ではなくて、谷ナオミが能面そっくりのメイクをした顔なのです。しかも、これが能面より能面っぽい。仮面の上に仮面を描くという試みが、ぞくっとするような歪んだ魅力を放っていたように思うのです。

それから、映画の冒頭と最後に出てくる年老いた下元史朗の老けメイクもちがった見方をした方がよいのかもしれません。下元さんは、現代映像研究会の松島政一さん(上映会はまたやらないのでしょうか?)のインタビューに答えて、こう言ってます。 この映画が今見てもつらいっていうのは、メイクの係なんていないから、自分で舞台風に髪を白く塗って、目尻にシワを書いてってやったら、とんでもない話で。ラッシュを見たら、モロに書いたようなシワでね。愕然としました。キャメラマンも言ってくれればいいのにって。 でも、老けメイクがNGにならなかったのは、映画そのものが仮面の上に仮面をのっけていくようなドラマだったからではないでしょうか。ちょっとこじつけみたいですが、そんな気がしてなりません。

谷ナオミと能面に話を戻すと、能面メイクのあとに、能面をつけた谷ナオミが夫に縛られて責められるシーンがあります。このシーンの能面は、谷ナオミの能面メイクを見た後では、単に顔を隠す仮面でしかなくて、ちょっとがっかりしました。でも、ここでは谷ナオミの縛られた肉体を見ることが大切なのかもしれません。能面は肉体に注意を向けるための覆いということなのでしょうか。 能面はラストシーンにも出てきます。娘役の谷ナオミが「母のかわりにわたしを抱いて下さい」と下元史朗に迫るときに、なぜか能面をつけているのです。で、下元史朗は娘役の谷ナオミを抱くのですが、抱かれる直前、能面が天井を見つめるような瞬間があります。その瞬間、能面の目がとても澄んでいて、切ない思いがあふれているようにわたしには見えました。 『(秘)湯の町 夜のひとで』で、雀が草原に寝転がり、空を見上げるときの切なさに似ているといったらいいのでしょうか。仮面の上に仮面をつみかさねていった果てに、ふいに本心に似た感情が満ちてくるところが素晴らしいと思いました。