プロフィール

1931年3月19日東京生まれ。1950年、早稲田大学文学部演劇科に入学。その後、八田元夫演出研究所に入り、演出を学ぶ。テレビドラマの俳優、シナリオライター、教育映画・テレビ映画の助監督などを経て、1964年、ピンク映画界へ。1965年に『あばずれ』で監督デビュー。1970年頃からピンク映画を代表する監督として認められるようになる。現在、監督作品として確認できるものは210本ほどだが、実際にはそれ以上撮っていると思われる。主な作品に『おんな地獄唄 尺八弁天』(70)、『(秘)湯の街 夜のひとで』(70)、『日本セックス縦断 東日本篇』(71)、『制服の娼婦』(74)、『痴漢と女高生』(74)、『谷ナオミ 縛る!』(77)、『少女縄化粧』(79)、『激撮! 日本の緊縛』(80)、『好色花でんしゃ』(81)、『セーラー服色情飼育』(82)、『連続殺人鬼 冷血』(84)、『紅蓮華』(93)などがある。2013年、新作『色道四十八手 たからぶね』の準備に入った矢先に倒れ、12月24日、大腸ガンで亡くなる。遺作は『喪服の未亡人 ほしいの…』(08)。

<少年時代:1931-1949>
1931年3月19日、東京府北豊島郡滝野川町に、渡辺恭三郎、ナカの第三子として生まれる(兄、姉、弟、妹の五人兄弟)。その後、一家は王子区豊島に引っ越す。渡辺によると、父・恭三郎の仕事は人入れ稼業。近所にあった築地館の経営に一時期(1939年頃~42年)かかわっていたこともあった。
子どもの頃に遊んだ荒川周辺では、大都映画がよく時代劇の撮影をしていた。また、父と一緒に歩いた王子の三業地の雰囲気も忘れられないものだった。母・ナカは不良になるからと言って映画を見ることを禁じていたが、ただ見する方法を考えては映画館にもぐりこんでいた。
1941年、憧れの存在であった兄・優(まさる)が結核で亡くなる。東大美学美術史科の学生だった優は、将来、小説か映画の道に進みたいと友人に語っていたという。渡辺は兄が遺した映画雑誌などを読むうち、監督や脚本家などのスタッフや映画史を意識した映画の見方を身につけていく。
神田の錦城中学に入ってからは、軍国主義の風潮になじめないこともあって、学校をさぼって浅草の映画館に通うことが多くなる。この頃に見た映画で忘れられないのは、監督:衣笠貞之助・脚本:伊藤大輔『雪之丞変化』(35)、監督:吉村公三郎『暖流』(39)、監督:伊藤大輔『鞍馬天狗』(41)。
「戦争が末期になってきたときから、いわゆる名画座みたいなスタイルが出てきたんですよ。昭和10年(1935年)頃から14年(1939年)の、大東亜戦争始まるまでの映画ってのは、結構、日本映画、魅力あったんじゃないですかね。その昭和10年から14年ごろの名作を、おれは(昭和)19年(1944年)の一年で見たような気がするんですけどね。だからおれの映画はもうあの昭和19年に見た映画で、おれの監督の資質ってのはもう全部なんですよ」
1945年終戦。「正直言ってほっとした。おれは非国民だな」。1947、8年頃、幼なじみの高橋正夫(1952年、血のメーデー事件で亡くなる)に誘われ、北区労働者クラブの活動に参加。子ども会の芝居の演出をする。

<監督になるまで:1950~1964>
1950年、早稲田大学文学部演劇科に入学(学費を使いこんでしまったため、卒業はしていない)。この頃、大映のニューフェイスに合格するが、軍隊のような雰囲気に嫌気がさし、数ヶ月でやめ、大学での演劇活動を経て八田元夫演出研究所に入る。研究所には後に声優になる近石真介、槐(さいかち)柳二らがいた。
戦前から体系的な演技論の必要性を感じていた八田元夫は、占領軍のCIE(民間情報教育部)の図書館で見つけたスタニスラフスキー・システムに関する論文を翻訳し、日々の練習に使っていた。渡辺は情緒的記憶や貫通行動などといった理論をたえず意識して演じることに窮屈さを感じてはいたものの、八田元夫のもとで学んだことはムダではなく、監督になってから「ああ、そうか!」と気づくことがあった、と語っている。
「役者がね、「こんな性格の悪い否定的な人間、どう演ったらいいんだ」みたいなことを言ったことがあるんですよ。そうしたら、八田元夫さんがさ、「自分がどういう人間か、よく考えてみろ。お前くらい、いやな野郎でくだらないやつはいないんだ。だから、この役をお前だと思え」みたいなことを言ったんですよ。要するに、自分の中にあるはずだと。その悪役が持ってる精神がね。それ聞いて、おれ、感心したことありましたよ」
1957年、山岡久乃の相手役として東芝日曜劇場に出る(岡本愛彦演出『髪の毛と花びら』)。以後、数本のテレビドラマに出演。だが、自分は役者には向いていないと考えていた。
60年代に入ってからは、シナリオライター(『特別機動捜査隊』、『若い炎』などのTVドラマ)、キャバレーのショーの構成・演出、教育映画・テレビ映画の助監督などをやるようになる。1964年、『無法松の一生』の撮影中、役者のスケジュールに関することで監督の土居通芳と口論になり、胸倉をつかもうとする相手の手をふりはらうつもりが、思いきり突き飛ばす結果に。渡辺はテレビ映画の現場を去ることになる。
仕事を失った渡辺に劇場用映画の助監督をやらないかと声をかけてきたのが、十朱久雄の弟・十朱三郎だった。助監督でついた作品は南部泰三『殺された女』。これがピンク映画界に入るきっかけとなった。
「あんまりその映画がバカバカしいから一本でやめようと思ったんですよ。だけどお金がいいんだよね。僕がチーフで6万もらった。当時、サラリーマンの課長クラスの月給が5万ぐらいだから、これは魅力ですよ。それに何たってピンクはキャッシュでくれるからね(笑)。で、その次は自分で脚本書いちゃったわけ。最初のがあんまりひどい映画だったからね。そしたら、ホン代と助監督で10何万なんだよね」(梅林敏彦『荒野を走る監督たち シネマドランカー』北宋社・1980年)

<新人監督:1965-1968>
1965年、扇映画プロダクションの斉藤邦唯は、南部泰三の現場で知り合った渡辺にピンク映画が撮れる監督の紹介を求める。渡辺は助監督についたことがある西條文喜を推薦し、少年時代に見て感激した『雪之丞変化』をヒントに少女の復讐もの『あばずれ』を企画(脚本は吉田義昭が執筆)。だが、西條は他の仕事が入って撮れなくなってしまい、渡辺が『あばずれ』を監督することになる。
監督デビュー作『あばずれ』の撮影は竹野治夫、照明は村瀬栄一。撮影所出身のベテランスタッフだった。
「一本目はそういうわけで、画としてはメジャー級だったらしいんですけどね。そういう意味ではラッキーだったって言えばそうだけど、俺が作ったって言えるのかなぁ(笑い)。スタッフが決まった時からそういうクラスになってる訳で、俺の力じゃないんだよね。よく夜のシーンをツブシって言って昼に撮ったりするんだけど、竹野さんはツブシは一切やらないんだから。自分で大きなライトを持ってきて、キッチリ、セッティングしてね。女優の左京未知子が、「やる気になるわぁ~」なんて言ってたよ。初号で、映倫が「ピンク映画もここまで来ましたか」って握手したもの」(『現代映像研究会会報』第7号・2001年)。
渡辺は『あばずれ』を含む初期の九本の映画を扇映画で撮る。
1967年、『情夫と情婦』の準備中、予定していた配給会社が倒産してしまう。渡辺は伝手を頼って小森白のもとを訪れ、彼が社長をやっている東京興映で配給を引き受けてほしいと頼みこむ。完成作品を見た小森は渡辺の演出力を高く評価し、東京興映の専属監督になるように誘う。渡辺にとって、ピンク映画界では大手の東京興映に入ることはうれしい話だった。さらに渡辺は小森の「もう一人、商売になる監督がほしい」という要望に応えるため、山本晋也を日本シネマから引き抜き、『知りたい年頃』(67)の製作を担当する。
東京興映でなければできない映画として、小森白・山本晋也・渡辺護の三人で監督する『悪道魔十年』(67年)、『密通刑罰史』(68年)を企画。だが、小森白がある女優が流したデマを信じて急に自分を遠ざけるようになったと感じた渡辺は1968年に東京興映を離れてしまう。このとき、ピンク映画をやめて教育映画にもどることも考えたという。1966年、『のたうち』を撮ったあと、助監督の沖島勲に一度だけもらしたことだが、渡辺はデビュー作『あばずれ』を超える作品がなかなか撮れないと悩んでいたのだった。

<主観カット/客観カット>
1968年の一時期、渡辺は仕事をせずに映画館でピンク映画を見続けたという。そのときにひらめいたのが「主観カット/客観カット」理論だった。
「ふっと気がついたのが、山本晋也の映画はアップに入っても客観カットだと。それが分かったんですよ。あいつの演出は主観じゃなくて、全部(ものごとを)客観的に見て撮るんですよ。それで今度は小森白さんの映画を見たんですよ。どっちかというと、おれはパクさんの映画を古くさいと思ってた。だけど、見ていたらね、説明カットは単純に早い。説明を聞いたら、パーン!と切っちゃう。それで、山場が来ると、寄り、引き、移動――延々とその芝居を押していくんですよ。そうすると、お客さんもそこでのると。小森白さんの場合は、全部主観カットになるんですよ、(山本晋也とは)逆に」
渡辺は「主観カット/客観カット」理論を今まで見てきたさまざまな映画にもあてはめて考えてみる。
「主観カット・客観カットってことを考えるようになってから、おれの映画の見方は変わってきたね。市川崑さんは山本晋也と同じ「全編客観カット」の監督だ。アップを撮っても主観に入らない。動きが面白いところをアップで撮る。たとえば、木枯らし紋次郎のふりかえり方が面白いと、そこをアップで撮るんだ。たぶん、そういう撮り方になるのは、劇映画の世界に入る前にアニメーションをやっていたからじゃないかと思う。
凄いのは、溝口健二と小津安二郎だよ。溝口さんは1シーン1カットで撮っているけれど、その1シーン1カットの中に主観もあれば、客観もある。小津さんはと言うと、アップは撮らない。全部客観といえば、客観だ。でも、『晩春』のラストで笠智衆が一人きりでリンゴの皮を剥くところがあるでしょう? あそこは引いた画だけれども、主観なんだ。つまり、溝口健二と小津安二郎の映画では、主観と客観が同時進行してるんだよ!
そのことに気づいたとき、おれにはとてもそんなことはできないと思ったね。それなら、どうしたらよいか? おれは昔から好きだった黒澤(明)さんや伊藤(大輔)さんのように行こうと思ったんだ。主観カットと客観カットを組み合わせて映画を撮っていこうと考えたんだよ」(『片目だけの恋』公式サイトのインタビュー)
夏目漱石『文学論』のF+fを思わせる「主観カット/客観カット」理論は、『あばずれ』を超える作品がなかなか撮れないという渡辺の悩みを解決するきっかけとなった。「山本晋也が客観カットだと、パクさん(小森白)の場合は全部、主観で攻めていくというのを知ったときにね……、あ!そうか!と思ったときには感覚的に自分の現場行くときの感じはずいぶんちがってきた。それから、なんかね、「あ、おれは撮れる!」っていうね、「おれは面白い映画が撮れる!」っていう自信みたいなものが出てきたですね」

<売れっ子監督:1969-1976>
「ボクは地味な方だが、一つの姿勢というか自分の方向を安易に妥協してしまうのがキライだ。妥協してしまえば、スムーズに行くことはわかっているけどダメなんだな。だから手を抜いた仕事はできない。主張は通す主義だ。だから他の監督のように忙しくはない」(「脱がせ屋の素顔(10)渡辺護監督 悪を追求し続ける善人監督」『月刊成人映画』第46号・1969年11月)
たしかに1968年までの渡辺の監督本数は年に5、6本と多くはない。だが、1969年は10本、以後、「五社でも通用する技巧」(『月刊成人映画』第46号)が認められ、年に12本以上の映画を撮っていくことになる。
1970年、渡辺は大和屋竺の脚本で二本の映画を撮る。一本目は女ヤクザ・弁天の加代の活躍を描いた『男ごろし 極悪弁天』(69)の続篇・『おんな地獄唄 尺八弁天』。
「大和屋ちゃんの書いてきたホンを初めて読んだときにはふるえたね。『尺八弁天』は俺へのラブレターですよ。いい台詞ばかりだし、主人公のまわりのキャラクターもいい配分で書けている。山中貞雄の時代劇の粋さに負けていないと思った。どうしてもやりたいから、俺は予算オーバーを覚悟で撮ることにした」「『尺八弁天』は小川徹が加藤泰に見るようにすすめたんだよ。加藤泰さんは、かなわないな、と言ったそうです。かなわないなっていうのは、緋牡丹博徒のホンは『尺八弁天』にかなわないなってことだと思う」(「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」『ジライヤ別冊 大和屋竺』・1995年)
二本目は温泉街に流れついたエロ事師たちを描いた『(秘)湯の街 夜のひとで』。
「(衰弱した雀が川原で死ぬラストシーンで)顔がぽちゃん(と水につかる)。水が冷たいんだな。でも、キャメラマンが偉いよ。池田(清二)は水からキャメラ引いて撮ったからねえ。分かるんだねえ、監督がのってると。助監督の稲尾(実)、キャメラの池田――あのときのわたなべぷろってのは、スタッフがすごかったねえ。今思うと懐かしいっていうか、一番いいときだったかもしんないなあ。いやあ、意識してたわけじゃないけど、今思うと、呼吸がものすごかったねえ。どんどん引っ張っていかれたですよ、スタッフに」
『映画芸術』は1970年11月号で『(秘)湯の街 夜のひとで』を取り上げ、シナリオと二つの批評、そして渡辺のエッセイ「何が難しいことだって ピンク監督の弁」を掲載した。
この頃、渡辺は主に関東映配配給の映画を撮っていたが、山本晋也が間に入って小森白との関係を修復、ふたたび東京興映でも撮るようになる。
1971年、東京興映の大作『日本セックス縦断 東日本篇』をまかされた渡辺は、高校生が悪さをしながら旅する映画をつくろうと考える。ところが、シナリオがなかなか完成せず、クランクインの日が迫ってきてしまった。そんなとき、大久保清逮捕の新聞記事を読んだ渡辺は企画を変更し、事件ものでいこうと考える。
大久保清は八人の女性を殺害した疑いがかけられていたが、渡辺が下田空にシナリオを頼んだ時点ではまだ否認していた。そこで映画では大久保清が犯罪に走るまでを描くつもりでいたのだが、クランクイン直前に八件の犯行を自供。小森白は群馬の旅館に電話をかけ、到着したばかりの渡辺に「八人の女性殺害を全部撮れ」と命じる。渡辺は下田空と小栗康平にシナリオの書き直しを頼み、翌日からシナリオなしでも撮れる部分から撮ることになる。
映画は大久保清逮捕から二ヶ月後の七月に公開され、大ヒット。『週刊読売』1971年7月30日号に「“大久保の実演”をピンク映画にしたスゴイやつら」という記事が載るほどだった。渡辺は「映画はどう撮ったってつながる」という発見があったことがこの映画の収穫だったと語っている。
1971年は日活がロマンポルノの製作を開始した年でもあった。
「ボクたちはこれまで映倫に遠慮してセックスシーンは、ある一線を超えないように撮ってきた。でも、日活のポルノ映画をみて態度を変えることにしましたよ。ボクらが“遠慮”してたところを、日活はかなり大胆に撮っているんですね。もう黙っているわけにはいかない。やりますよ。徹底的にファックシーンを撮るし、負けられません」(「話題の新作「男女和合術」下田ロケ・ルポ 渡辺護監督、「エロ事師」で日活ポルノへ果たし状」『月刊成人映画』第72号・1972年1月)
だが、ピンク映画の製作条件は年々悪化。1973年に小森白はピンク映画に見切りをつけ、東京興映をたたみ、映画界から引退してしまう。1972年から76年にかけて、渡辺は製作・大東映画(関東映配が製作専門のプロダクションとなって改称)、配給・大蔵映画のピンク映画を何本も撮っているが、その中には大阪ホステス殺人事件を描いた話題作『十六才 愛と性の遍歴』(73)や、渡辺自身が代表作としている荒井晴彦脚本の『制服の娼婦』、『痴漢と女高生』(ともに74)などがある。
「これ(『制服の娼婦』)見て、みんな泣いたからねえ、初号のとき。ゴールデン街の荒井の友だちがみんな見に来て、(試写室が)満員になっちゃったんだよ。で、終わったら、(見に来た連中が)「荒井、泣けちゃったよ」「荒井、やったね!」って言うから、あれ、監督はおれなんだけど……(笑)」
また、1975年には谷ナオミの事務所にいた東てる美を見て、「この子はスターになる!」と確信し、主演作『禁断 性愛の詩』(75)を撮っている。
わたなべぷろだくしょんが「門前忍」という変名を使うようになったのは1971年から。この名前で監督したのは、渡辺、山本晋也、栗原幸治の三人である。
1972年に声優の渡辺典子と結婚。

<緊縛ものと新人女優:1977-1984>
1970年代半ば、新東宝興業は小森白『日本拷問刑罰史』(64)のようなヒット作を求め、若松孝二、山本晋也らに拷問ものを発注していた。同じ注文は渡辺のところにも来たが、拷問ものが生理的に苦手な渡辺は廓の女たちの悲しみを描くというねらいで『(裸)女郎生贄』(77)を撮る。だが、撮影中に男優がふりまわしたサーベルが女優の目の下にあたって負傷するという事故が起き、納得できるものにはならなかった。
同じ年、渡辺は新東宝から「谷ナオミ主演で一本」という注文を受ける。
「(新東宝には)「拷問はやらない」って言ったんですよ。緊縛の変態映画じゃなくて、金に縛られるとか、力に縛られるとか、「縛られる女」って解釈で(映画を撮ろうと思った)。要するに、縄はベッドシーンの小道具として考えようと。高橋伴明が(シナリオライターで)いたんで助かったけどね」
渡辺は、高橋伴明が立原正秋『薪能』をヒントにして書いたシナリオで、『谷ナオミ 縛る!』(77)を撮る。
「『谷ナオミ 縛る!』がそれこそヒットした。当たったもんだから、(新東宝が)またいってくれって。そうしたらね、「ナベさん、日活が(谷ナオミを)もう出さないって言うんだよね。どうしようか」って言うから、ああ、上等だと。(日活が)谷ナオミを出さないって言うなら、谷ナオミが出ないでも、『谷ナオミ 縛る!』を超えるものを撮ればいいんだろうと」
日活に対抗するには少女ものだと考えた渡辺は、廓に売られてきた少女を主人公にした『少女を縛る!』(78)を撮る。この作品は渡辺にとって会心の作となったが、少女と縄の組み合わせで多くのひとに注目されたのは、監督デビュー作『あばずれ』の時代劇版リメイク『少女縄化粧』(79)だった。撮影の鈴木史郎が復讐を誓って巡礼の旅を続ける少女の姿を凝りに凝った映像で撮ったこと、当時、人気が出てきた日野繭子が主演していることなどもあって、『少女縄化粧』は第一回ズームアップ映画祭で作品賞をとる。
渡辺は高橋伴明や小水一男(ガイラ)の脚本で緊縛ものを撮っていた頃をふりかえって次のように語っている。
「『谷ナオミ 縛る!』のときは探り探り撮っていた。『少女を縛る!』のときは、(日活に対抗して)『谷ナオミ 縛る!』以上のものを撮ろうと、演出をかまえて撮っていたですよね。『少女縄化粧』は渡辺護の好みのものでね、愉しんで撮っているというのかな。
ガイラ(の脚本)になってからは、女の体は権力より強いっていうテーマに変わったかな。いくら男が縛っても、男の方は死んじゃうけど、女は生き残っていくっていう映画になっていったね。『激撮! 日本の緊縛』(80)のときはさ、女を縛ってサーベルでもって叩いても、女は生きていくみたいな話。
だんだん、そのときには、縛りものを今度は何で行くかってことで追っかけられる人生になってきたね」
1976年以後、渡辺は新東宝以外にも、向井寛のユニバースプロモーションで東映ポルノを撮り、ミリオンでも撮っていたが、それに加えて1979年からは日活の外注作品を撮るようになる。
「次から次へと、撮っては飲み、飲んでは撮る。自分自身で自分がどういう状態なのか、もう、よくわからない。そんな昨今だ。昨日も深夜二時まで、打ち合わせしながら飲んだ。だが、午前八時には目が覚めた。午後二時の新幹線に乗らなくてならない。今日は、大阪の“ピンクリボン賞”授賞式に出演することになっている」(「日録」『日本読書新聞』1980年7月7日号)
第1回ピンクリボン賞受賞記念作品『好色花でんしゃ』を撮った1981年、知人の大曲瑛一から「うちの事務所に電話番もできない子がいるんだけど、ものになるだろうか」と相談を受けた渡辺は、一人の少女と会う。一目見て、売れる!と直観した渡辺は、彼女に美保純という芸名をつけて、日活の外注作品『制服処女のいたみ』を撮る。
「最初に池袋で撮ったんですよ。セーラー服の子がいっぱいいるところで歩きを撮ったんだよ。そのとき、(美保純が)セリフを言って、途中でふりむいて、「監督、いいのか、これで?」って言うんだよ。「いいの?」じゃないんだよ、「いいのか、これで?」なんだよ。
「いいけどよ、カットって言うまでやってくれよな」「えっ?」って言うんだよ。「よーい、スタートで芝居するだろ。カットって言うまでやってないとダメなんだよ。お前みたいに勝手に、これでいいのか?はねえだろ」って言ったよ。「ああ、そうか。分かった」。これが可愛いんだよな。
(『制服処女のいたみ』は)できそこない映画ですけど、美保純が可愛かった。魅力的だった。これがね、不思議に売れちゃったんだよな。舞台挨拶のとき、美保純が出たらね、お客の反応が俄然すごいんですよ。大曲はそれを見て、これは儲かる!ってんで積極的にマネージャーやるようになった」
1982年、曽根中生のフィルムワーカーズに入った渡辺の最初の仕事は、日活外注作品『セーラー服色情飼育』の監督だった。ところが、出演予定の新人女優が降りてしまい、急遽、代わりを探すことになる。このときに出会ったのが可愛かずみだった。
「これは売れるな!ってね。もうとにかく、(喫茶店で)水も飲まないで、「お願いします。出てくれ。かならず後悔させない。出てよかったっていうふうにするから。おれを信用してくれ。信用って言っても無理かあ」。そういう会話ばっかりしてた。ところが、(可愛かずみの)反応がさ、「出て裸になってもいいけど……、からむのはイヤだ……。だから、わたし、やっぱり、やめる」。そういうことを言ってたよ。
「よし、(からみは)なしでいこう!」。(おれがそう言ったら、プロデューサーが)おい、大丈夫か、ナベさんって顔してたよ。すごかったね、あのときの神経は。やっぱりね、狂気の世界だよ、監督がものをつくるときは。この子で撮ろう! これで決まり! それしかない。おれの場合、それが特徴だね。
『セーラー服色情飼育』で可愛かずみが売れちゃってねえ。バーッと評判になって、劇場が満員になったからねえ。そしたら、山根(成之)って監督がいるじゃない。シブガキ隊(の映画)を撮るんで、誰か女優さんいないかって言うから、可愛かずみを推薦した。「シブガキ隊と一緒に出るんですか!」って、おれの作品のときには見せないうれしそうな顔してたよね。あのときの顔、無邪気で可愛かったなあ。「ああ、出る出る! 出ます!」てなこと言ってさ。あんときはさ、誰のおかげだ、コノヤローって思ったよ(笑)」
渡辺は可愛かずみ主演で初の一般映画『忙しい花嫁』を撮る準備を始める。だが、曽根中生から「その前に事件ものを一本撮ってくれ」と言われ、監督したのが『連続殺人鬼 冷血』(84)であった。
「曽根が『連続殺人鬼 冷血』をやってくれと言ったのは、おれの大久保清(『日本セックス縦断 東日本篇』)をおぼえてたから。(高橋三千綱を刺した)中山一也主演でと言ったのも曽根。宣伝がタダになるっていうんだな。「渡辺護が現場でしごいて、カッとなった中山一也に刺されるであろうことを予言する」なんてゴールデン街で言ってたやつがいたそうだよ」

<ピンク映画から離れて:1985-1993>
1985年5本、86年3本、87年1本……と渡辺の監督本数は年々減っていく。
「映画を撮らしてもらえないような環境になってたね、ピンク映画は。代々木忠の『ザ・オナニー』とか、そういうのがあたるようになって、ビデオで撮ったものを劇場で流すみたいなことが流行ったことあるでしょ。そうするとね、にっかつでもね、どこでも、ベッドシーンがあればいいみたいな風潮が出てきたんです。
撮る意欲が起きてこないんですよ。何撮っていいのか分かんないってのもあるんですよ。いつだかフィルムワーカーズの資金繰りが大変なんで、ピンクを撮ってくれって言われたことがあってね。いいかげんなもの撮ったんですよ。そのとき、撮っててね、「撮ってやる! 面白いものつくってやる!」ってのがなくて撮ってるってのはね、つらいですよね。もう、そのときは、ピンクはおれの時代じゃなくなっている……ってことはありましたね」
1989年の『生板本番 かぶりつき』を最後に、渡辺はピンク映画から離れてしまう。その頃、渡辺が撮っていたのはカラオケだった(東映カラオケビデオシリーズの『愛しき日々』、『津軽じょんがら流れ唄』、『おれの小樽』、『君は心の妻だから』、『夢芝居』、『涙の連絡船』、『長崎の鐘』、『さらば青春』など)。
「いいよ、カラオケってのは。お金もらって、高級旅館泊まってさ、みんなタイアップだからね。だから、カラオケばっかり撮ってた。うん、それは楽しかった。津軽行ったりさあ、札幌行ったり。それでさ、あれ、ドラマじゃないから。女をきれいに歩かせたりさ、ふっとふりむかせたりとか。要するに、テクニックだな。画にして音楽流して、そういうことが結構面白くて……、ああ、面白かったよ!
おれは早かったよ。ぱっぱっと撮って、あとは(酒を飲む手つき)。その頃は飲みましたから、(撮影の)鈴木史郎と年中。で、鈴木史郎には「映画撮らないんですか、監督」「監督、映画撮ろうよ、撮ろうよ」って言われたけど……」
あるとき、田中うめのの『梅一輪』という女性社長の自伝を二億の予算で撮らないかという話が渡辺のもとに来る。渡辺は監督を引き受けるが、シナリオづくりは難航し、佐伯俊道が書いた第一稿をもとに沖島勲が第二稿を書くことになった。
「飲み屋で受け取った沖島のホンは、生原がこれくらい(5cm)あったんですよ。で、帰って読んだですよ。あいつが考えてることが全部入ってるわけよ。演説ぶってるみたいなもんよ。でも、不思議なもんでねえ、明け方、読み終えたときには、あ、できた、と思ったよ。これで映画できた!と思った」
渡辺の話では、『紅蓮華』(93)でもっとも印象に残っているのは、主人公・さくらの再婚相手・建造を演じた役所広司だと言う。
「プロデューサーは他の役者をあげていたんですよ。奥田瑛二とか、根津甚八とか。おれは役所広司の『三匹が斬る!』を見て、これはいい役者だなあってのがあったんだよね。「役所広司、テレビに出ずっぱりだから、おそらくスケジュールあいてないだろうけど、ちょっとあたってみてくれ」と言ったんですよ。そうしたら、プロデューサーが「えっ、役所広司?」。この頃、誰もこの役を役所広司なんて考えてなかった。映画の主役として認めてないっていうか。でも、役所広司は、ホンを読ませたら、すぐOKですよ。どんなスケジュールであっても、これには出ると。おれはついてるなと思ったですよ。
『紅蓮華』は難しかった。動きがないから。ドラマとしてカットバックするものじゃないから。客観カットで決めていかないといけないから。キャメラ、あんまり動かさないで撮っていこうというのがあるから、役者の演技の雰囲気ってのをあてにするわけですよ。
(武田久美子演じる愛人の洋子に役所広司が)「子どもができた、だから、帰って下さい」と言われて怒るところをどう撮るかってのは難しかったですね。そのとき、役所広司さんが「これは男のエゴイズムを剥き出しにしないとダメでしょうね」って言うから、「それと自己嫌悪かなあ」と答えた。それで役所広司の芝居に賭けるわけだよな。見たらさあ、泣けたもんね。いい芝居するんだよ。これねえ、役所広司じゃなきゃできなかったんじゃないかと。全身に「生きる意味がない」って悲しさが出てて、魅力的だったですよ。うーん……とうなっちゃったよ。二百何十本撮ってて、おれ、こんなの初めてだよ」

<ピンク映画に戻る:1994-2013>
2000年、渡辺は小水一男プロデュースで『川奈まり子の人妻愛モード 上司の妻を辱める』など二本のOVを撮る。
「今度のGAIRA・SHOCKレーベルの二本も、俺はピンク映画のつもりで撮ったんだ。日程的にはきつかったけど、現場は明るかったよ。
一本目はそれなりに商品としてキッチリ撮ったからね。何がどうって、大した話じゃないんだけど、一時間、アッという間に観ちゃうよ。おかしくって、もうみんな現場で吹き出してたんだから。来年早々にビデオが出るのかな? どんな反応があるか楽しみだよ。
もう一本は、商売的には間違いないかもしれないけど、それほどはね。「いつもの、例の手で一丁いきましょう、への三番で」てなもんでね。でもね、今の若い監督はベッドシーンが撮れてないですからね。
来春、国映・新東宝で、久しぶりにピンク映画も撮りますよ。稲尾(実)の製作でね」(『現代映像研究会会報』第7号・2001年)
渡辺はピンク映画に戻り、2001年に新東宝で『若妻快楽レッスン 虜』を、2002年にエクセスで『義母の秘密 息子愛撫』を撮る。だが、このときに撮った映画については、後になって自己批判するようになる。2008年、切通理作によるインタビューの中で渡辺は次のように語っている。
「前に久しぶりでやったときは正直ナメてかかってた。自分の中にあるピンクのやり方の中で撮っていただけで『思い』がない。監督ってのはそういうのあるんだよ。三~四年前に動脈瘤と癌やって、二度と監督できないと思った。「もうお別れだ」と、持っている物をひとに全部あげたり。でもまた元気になって、昔からの付き合いの制作会社・国映の朝倉さんから「ナベちゃん、映画撮んないと身体に悪いよ」と電話あって、やってみようと思った。今度は最近作られた他のピンク映画も参考に見て、その上で『オレのスタンダードはこれだ!』と勝負出来る映画にしようと」(「21世紀切通理作の一刀両断 ピンク映画時放 渡辺護監督インタビュー」『ニャン2倶楽部Z』・2008年8月号)
2008年、渡辺は国映で『喪服の未亡人 ほしいの…』を撮る。この作品は、切通インタビューの中でも言っているように、ピンク映画の新しいスタンダードをつくる試みの始まりであった。渡辺はすぐに新作の準備に入ったのだが、その後のことについては、私(井川)が別のところに書いたものを引用しておく。
「次回作のシナリオの打ち合わせのために渡辺護さんの家に行ったのは、二〇〇八年六月だったか。「切通理作さんが『喪服の未亡人 ほしいの…』について書いてますよ」と言って『キネマ旬報』六月上旬号を渡すと、渡辺さんはその批評を読みだした。「おい、食えない映画だなんて書いてあるぞ」と言ってニヤニヤしている渡辺さんに私は尋ねた。「次回作、どうしますか?」「そうだな、『喪服の未亡人』パート2――また食えないやつをやろう」」「私は『色道四十八手 たからぶね』というシナリオを書いた。撮影は二〇〇九年秋の予定だったが、残念ながらさまざまな事情から製作延期となってしまった。そこで渡辺さんと私は今の自分たちにすぐできる映画を撮ることにした。渡辺さんがカメラの前で自分の人生とピンク映画史について語る自伝的ドキュメンタリーである」「全十部八時間のドキュメンタリーがもうじき完成するという二〇一三年九月、ぴんくりんくの太田耕一さん、PGの林田義行さんと一緒に私は渡辺家を訪ねた。太田さんの「ピンク五〇周年を記念する映画として、『たからぶね』を撮ってほしいのです」という言葉に、渡辺さんは即答した。「やるよ。絶対に面白いものにする」 だが、十一月二日に渡辺さんは外出先で倒れてしまった。検査の結果、大腸ガンであることが判明。十一月十七日、病院で渡辺さんは言った。「おれはガンだから撮れない。井川、『たからぶね』はお前がやれよ」 そうして、十二月二十四日に渡辺さんは亡くなった」(井川耕一郎「ピンク映画をもう一度ゼロから始める」『PG』第110号・2014年)

<監督・渡辺護とその作品(1)>
「ピンクってのは一番監督の映画が作れる場所だったですね。例えば、雪の中を裸で走るっていうキャッチフレーズがあれば客が来たって時代があるわけね。だから、ベッドシーンさえ撮れば内容はどう作ってもいいという自由が我々にはあったわけですよね」「僕らには、これ一本失敗したらクビになるとか、そういう追いつめられた気持ちはないわけよ。日活にはまだあると思うんだ。だから、僕らの映画っていうのは、バカバカしくつまんないとか、あるいは気楽に面白かったというのがマチマチにあったりするんじゃないかな。そういうやり方が逆に、今の観客に対する映画作りのリズムになってるってことも言えるんじゃないかな」(梅林敏彦『荒野を走る監督たち シネマドランカー』北宋社・1980年)
渡辺にとって、ピンク映画は監督としての自分を育ててくれた大切な場であった。けれども、ピンク映画史の中だけで見ることを試しにやめてみると、渡辺についてどのようなことが言えるだろうか。
渡辺は「僕は小学校の頃から“カツキチ”って言われてね。ええ、活動気違い。もう、浴びるほど見てましたね」(『荒野を走る監督たち シネマドランカー』)と言い、自作については「昔見た映画のイタダキをずいぶんやった」と言っている(たとえば、『女の狂宴』(66)は大曾根辰夫『獣の宿』の、『情夫と情婦』(67)はビリー・ワイルダー『深夜の告白』の、『明日なき暴行』(70)は木下恵介『女』の、『多淫な痴女』(73)はフェデリコ・フェリーニ『道』の、『禁断 性愛の詩』(75)はクロード・ルルーシュ『パリのめぐり逢い』のイタダキである)。ところで、「カツキチ」をシネフィル、「イタダキ」をオマージュと言い換えてみたらどうか。意外と渡辺はフランスのヌーヴェルヴァーグに近いのではないか。実際、渡辺は1931年生まれで、ヌーヴェルヴァーグの監督たちと同世代なのである。
また、1977年、館主会で『谷ナオミ 縛る!』について「これは拷問もの?」と訊かれた渡辺は、「拷問ものじゃねえよ。文芸ものだ」と答えたという。『谷ナオミ 縛る!』が立原正秋『薪能』をヒントにしたものであったからそう言ったのだろうが、この「文芸もの」という言い方の背景には1950年代後半から60年代前半に数多くつくられた文芸メロドラマがあるのではないか。
「「よろめき」ブーム以降の文芸メロドラマは、不倫の恋の主題を全面に押し出すとともに、婚前交渉、妊娠、同性愛、初体験、性暴力、若年者への性的誘惑、インセスト、色情症、離婚、自殺などの刺激的な場面を含み、不倫という特殊な恋愛劇をより重層的な性的スペクタクルへと仕立て上げるようになってきた」(河野真理江『文芸メロドラマの映画史的位置 「よろめき」の系譜、商品化、批評的受容』「立教映像身体学研究」第一号・2013年)
河野による文芸メロドラマに関する説明を読むと、ピンク映画の源流の一つに文芸メロドラマがあるのではないかという気がしてくる。特に渡辺は文芸メロドラマ的な発想についてはかなり意識的な監督だったのではないか(たとえば、渡辺の『奴隷未亡人』(67)は溝口健二『雪夫人絵図』の翻案であり、『女子大生の抵抗』(66)、『性能の奥技』(73)、『緊縛色情夫人』(80)の三本は『肉体の悪魔』の翻案である)。さらに言うと、渡辺の初期作品のキャメラマン・竹野治夫(生田洋の変名を使用)は、五所平之助の文芸メロドラマ『わが愛』、『白い牙』、『猟銃』のキャメラマンでもあった。この事実から、竹野治夫を通して渡辺が文芸メロドラマの影響を受けたという仮説を立てることもできるだろう。

<監督・渡辺護とその作品(2)>
「新藤孝衛のように情事ロマン派でもなければ、若松孝二のようにゲバルト路線でもない。いわばおとなの映画が本流かと思うと時には若々しい女の子の現代性を追及してみたり、喜劇ものを撮ってみたり、幅は広い。
だが、彼の世界は女の“情念”といったものが得意といえるだろう。もっとも彼と親しく交流している山本晋也監督にいわせると、
「やっぱり、“情念作家”ですね。彼に情念の世界を描かせたらとても他の監督が追従できない魅力をもった作品をものにする人ですね。その点貴重な人です」と評価する」(「脱がせ屋の素顔(10)渡辺護監督 悪を追求し続ける善人監督」『月刊成人映画』第46号・1969年11月)
「何でもこなす、人情劇から復讐劇、かと思うと諷刺劇から喜劇または時代物だろうが現代物だろうがなんでも撮る。そしてそれが、すべて渡辺護の映画世界としてひとつの糸で結ばれているのだから驚いてしまう。
自分の体の中にシミこんだものを、それぞれのパターンにあわせて器用にギヤチェンジする切れ味の良さを持ち、ありがちなテーマによりかかりすぎて作品的に破綻するというミスをまったくと言っていいほどしない。新東宝映画がピンク映画で本格的に“縛り”を始めてからは“縛りのナベさん”の異名をとるほどSM映画を撮っているが、そのどれもがキワモノになることを極度に恐れた作品構成に重きをおくつくり方である。SMに至る心理描写が執拗に描かれるのである」(鈴木義昭『ピンク映画水滸伝 その二十年史』青心社・1983年)
渡辺については、まずは作品の多様さが強調され、次にその多様さの中に共通して流れる何かがあるというふうに紹介されてきた。だが、渡辺が亡くなった今、もっとも知りたいのはさまざまな作品に共通する「何か」だろう。その「何か」をもう少しはっきりさせることはできないものだろうか。
監督・渡辺護の本質を探る試みはとても難しい。何しろ監督した本数が何本なのかということからして正確にはよく分からない。現在、確認できる監督作品は210本程度だが、実際にはそれ以上撮っているのではないかと言われている(渡辺は、70年代に監督作品が百本を超えたところで数えるのをやめた、と言っている)。そのうえ、今、見られる作品はほんのわずかだ(それも70年代半ば以後の新東宝作品、日活外注作品が大半である)。シナリオについては、残っているフィルムに比べると時代的な偏りはそれほどなく、数も多いが、80本弱しかない。
それでも、渡辺が残した言葉と、現在見られる作品をつなぎあわせてみれば、監督・渡辺護の本質に迫る試みの手がかりくらいは得られるだろう(渡辺は直感的な職人監督というふうにひとから見られたがっていたが、実際にはそうではなかった。自前の理論でもって自分のやってきた仕事を分析せずにはいられないひとであった)。
試しに四つほどの仮説を記してみる。

(1)役者のドキュメンタリーとしての劇映画
若い頃、八田元夫演出研究所で学んだ渡辺にとって、監督の一番の仕事とは、役者の芝居の演出をすることだった。渡辺の演技指導は厳しく、下元史朗が語るこんな伝説があるくらいである。
「護さんは、ホント、映画バカ。現場は、すごかったですよ。えらいロングでカラミやって、それを望遠で撮ってるんですけど、突然、護さんがバーッと走りだすんですよ。何すんのかと思ってたら、芝居が気に入らないんだか、何だか知らないけど、エキストラをぶん殴っているんです(笑)。それだけ、現場入ると、こう(近視眼的に)なっちゃう人でした」(松島政一「ピンク第二次黄金時代Part1 渡辺護と山本晋也」『別冊PG vol.5 PINK FILM CHRONICLE 幻惑と官能の美学』・2002年)
(注:以前、渡辺にこの話について確認したところ、「あのとき、おれはエキストラを殴ったんじゃない。あいつは役者なのにちゃんと芝居をしてなかったんだ」という答が返ってきた)
だが、一方で渡辺はくりかえし次のようなことを語っていた。
「スクリーンに演技力は映らない。スクリーンに映るものは役者の人柄であり、存在感だ」
渡辺が言わんとしていたのは、劇映画にはもう一つ、別の顔があるということだろう。その顔とは、「役者のドキュメンタリー」ではないだろうか。渡辺は自分が撮った喜劇について次のように語っている。
「ピンクでは、この役はこいつで、こいつが空くまで待ってようなんてできないんだよな。余裕のないとこでキャスティングして映画を作っていかなきゃなんない。そうすると、来た役者が持っている雰囲気でもって芝居を構成していくってことになるんだよね。
腕のいい堺勝朗とか野上正義とか松浦康ってのは喜劇に出ると、役者の業っていうのかなあ、「あいつよりおれの方が面白い」「おれの方が受けなきゃつまんない」ってのがあって、「あいつがこう来るんなら、おれはこうやってやろう」っていう争いになって来るんですよ。テストをくりかえすと、だんだん芝居が変わってきて、本番になると、まるで変わっちゃうからね。これが面白かったですよ。だから、それがね、メジャーにはないピンクの喜劇なんだろうな。条件が整ってないからそういう喜劇になるんですよ。
おれもねえ、言ってたよ。それだけじゃねえだろ? それだけじゃねえだろ? 何にもねえじゃないかよ。もう一度やってみな――てなこと言って役者を煽ったことはずいぶんありますよ」
だが、役者のドキュメンタリーとしての劇映画ということで重要なのは、東てる美の『禁断性愛の詩』、美保純の『制服処女のいたみ』、可愛かずみの『セーラー服色情飼育』の三本ではないだろうか。渡辺は、主演の子が魅力的でかわいいので、次から次へとアイデアが出てきてカット数が増えていった、と語っている。要するに、これら三本の映画は、劇映画であると同時に新人女優の魅力を発見する過程を記録したドキュメンタリーでもあったということだろう。

(2)矛盾を生きること
『日本セックス縦断 東日本篇』で大久保清の事件を描くときに渡辺が注目したのは、父との関係だった。
「大久保清がなぜ犯罪に走ったかというと、奥さんが親父に犯られちゃうわけですよ。「おれの女房とやって、お前、どうやってケジメつけるんだ、この野郎」「お前の言うとおりにするから、どうしたらカンベンしてくれるんだ?」って親父が言うと、「車を買ってくれ」。女を暴行するための車を買ってくれってことだな」
自分の性欲を満たすために息子の嫁まで犯してしまう父を憎みながらも、その父と同じようなことをやってしまう――大久保清のあり方は矛盾している。
『連続殺人鬼 冷血』のロケハンのときに渡辺が注目したのは、勝田清孝の父が建てた赤い屋根の家だった。
「小さい家だけど、おれのとこはモダンでアメリカ的なんだと。古い日本のしきたりでやってるんじゃないんだってことで、赤い屋根。やっぱり目立つだろう、おれのうちは、と勝田の親父は考えてる」
勝田清孝はそんな虚栄心の強い父を軽蔑しながらも、実際より自分を大きく見せようとしているうち、犯罪に走る。勝田もまた大久保清と同じように矛盾を生きていると言えるだろう。
この二本の事件ものに限らず、矛盾を生きることは渡辺にとって重要なテーマの一つだったのではないだろうか。
『おんな地獄唄 尺八弁天』で、渡辺が力を入れて演出したのは弁天の加代とセイガクのベッドシーンであった。セイガクは加代の背の弁天の刺青を見た後、自分の背に彫ってある吉祥天の刺青を見せながら次のように語る。
「こう血が騒ぐのも、俺のせいじゃねえ。お前のせいでもねえ」「契るのは俺とお前じゃねえ」「契るたって仏さん同志のやるこった。俺っち外道の知ることかよ」「こうなる星の下だ。長生きは出来ねえ。墨を入れたお前の体は、今がまっ盛りだってことよ」
渡辺は大和屋竺が書いたこうしたセリフに魅了された。神に衝き動かされる外道であること――セイガクと加代は背に刺青を彫ったときから矛盾を生きている。
また、『聖処女縛り』(79)では、綾(日野繭子)は恋人(下元史朗)を殺した特高の小西(鶴岡八郎)に復讐しようとするのだが、小西に縛られて快感を感じるようになる。ここにも矛盾を生きる登場人物がいるが、さらに渡辺は人を服従させたい権力者も矛盾を生きているとして、特高の小西について次のように語っている。
「(鶴岡八郎演じる小西にとって)反抗する日野繭子(綾)は面白いけれど、岡尚美(綾の姉で小西の愛人)みたいなのは面白くないというのはあったりするでしょうね。反抗的だと、男はそれを服従させたいし、また好きになるわな。一方、服従するやつは分かりきっているし、つまんない女だと。大ざっぱに言うと、そういう差別はあるでしょうね」

(3)さすらうこと
渡辺は子どもの頃に見た映画の忘れられないシーンについてこんなことを語っている。
「子どものときね、おれ、海って見てないから。(映画の中で)海を歩く浪人の姿がね、なんとなくかっこいいっていうか、もの悲しいっていうかね、そういうもの感じた記憶あるんですけど。浪人がね、海のところ歩きながらね、楊子かなんかくわえて、こんな悲しい顔してね、泣きながら座り込むシーンなんかあるんだよ。そういうムードがけっこう好きでしてね」
この言葉は、二百本以上の映画を撮った監督が自分の考える映画的なイメージとは何かを語ったものとして読むことができる。さすらうこと(特に水辺をさすらうこと)は、渡辺がもっとも映画的と感じるものであった。たとえば、強盗殺人犯とその女の逃避行を描いた『明日なき暴行』は、さすらうことだけで一本の映画をつくる試みだったととらえることができるだろう。
また、渡辺は『少女縄化粧』をどのように発想したかについて次のように語っている。
「『少女を縛る!』撮って、『緊縛変態花嫁』撮って、もう企画がなくなっちゃったんだよ。さて、次の緊縛もの、どうしようかってときに、ふと思ったのが――少女が巡礼して歩く。恨みをもって復讐のために八十八ヶ所をまわると。それでぱっとホン屋にふるわけだ。「お前できるか?」って。そうしたら、高橋伴明が「それだけじゃなんとも……、八十八ケ所まわるって画は分かるけれども、それをどういうふうに……」。
しょうがないからさ、おれ、『あばずれ』のホン、見せてさ、「これ、緊縛ものになるか、おい」。最後はもうネタあかしだよ。そうしたら、高橋伴明が軽蔑したようにおれの顔を見て笑って、「じゃあ、考えさせて下さい」。で、「あ、できますよ」って電話かかってきてさ。
おれは流れるってのが好きなんだよ。旅から旅へってのが好きなんだよ。あの映画を見るとね、『少女縄化粧』っていうけれど、何で縄化粧になるのか……。本当は緊縛ものにならないんだよな」
だが、さすらいという点から見てもっとも重要なのは、シロクロショー、エロ写真、ブルーフィルムなど、エロを見せて旅するものたちを描いた系列の作品ではないだろうか(『シロクロ夫婦』(69)、『(秘)湯の町 夜のひとで』、『男女和合術』(72)、『多淫な痴女』(73)、『おかきぞめ 新・花電車』(75)など)。子どもの頃、どさ回りの役者になって旅することをよく夢想していた渡辺にとって、この系列の映画はのりにのって撮ることができるものであったにちがいない。
渡辺は1981年の『好色花でんしゃ』のあと、この系列の映画を撮っていない。そういう作品が求められなくなっていったことが、ピンク映画を撮る意欲を失う原因の一つになったのではないだろうか。
また、さすらうこととの関連で注目したいのは、80年代後半から撮るようになったカラオケである。生活のためとはいえ、地方を旅しながらの仕事はかなり楽しいことだったのではないか。実際、残されたカラオケを見てみると、水辺を女がさすらう渡辺好みのカットが大半なのである。

(4)幸せなときはもう二度と戻ってこないという悲しみ
「俺はドラマってのは「別れ」だ、と思ってるからね。昭和十八、九年、子どものときに学校さぼって浅草で見た映画を体がおぼえてるんだ。『望郷』や『河内山宗俊』のラスト……ああいうのが映画だ。生きるはかなさ、もの悲しさ……言葉じゃ言い切れないけれど、そういうものに酔ったんだよ。ドラマってのは「別れ」だ。別れがあって、時が過ぎていくってのがドラマだな」(「『おんな地獄唄 尺八弁天』を撮り終えたくなかった」『ジライヤ別冊 大和屋竺』・1995年)
「(渡辺護自伝的ドキュメンタリーの)第一部(『糸の切れた凧 渡辺護が語る渡辺護』)でいえば、僕らも初めて知る、兄の死や血のメーデー事件で死んだ幼なじみのエピソードを語る時の渡辺さんの相貌に現れる「喪失感」なのだが、やはり白眉は第二部(『つわものどもが遊びのあと 渡辺護が語るピンク映画史』)で語られる、徹夜の撮影でうたた寝してしまった女優の寝顔を見て、「あれは怖いよ」という一言だろう。渡辺さんは「今」という瞬間の計り知れない恐ろしさのことを言っているのである。ある忘れがたい一瞬があった。その場所が、紛う事なき同じ場所であるのに、もうその一瞬はかき消えているという耐えがたい感覚について。それは兄の遺骸が運び去られた部屋で、今にも兄が襖を開けて入って来そうに思えて、思わず名前を呼んでしまう。すると「え、何処?」と母親が入ってくる。その感覚に通じるものだ。渡辺さんはそれを「つわものどもが遊びのあと」と呼んでいる」(高橋洋「まるで伊藤大輔と競い合って撮っている人みたいな」『映画芸術』第447号・2014年)
渡辺自身の言葉も高橋の言葉も、直接、作品に言及したものではない。けれども、「情念」(『月刊成人映画』)や、「自分の体にシミこんだもの」(鈴木義昭『ピンク映画水滸伝』)が指し示そうとしていたものが何であったかを解き明かすものになっている。渡辺のさまざまな作品に共通して流れている何か――それは、幸せなときはもう二度と戻ってこないという悲しみではないだろうか。
1965年に撮った監督デビュー作『あばずれ』は、少女が父を自殺に追いやった後妻とその愛人に復讐するというものであった。おそらく、復讐劇は、幸せなときはもう二度と戻ってこないという悲しみを表現するのに最も適した枠組みであったのだろう。渡辺はその後、『あばずれ』を『少女縄化粧』、『変態SEX 私とろける』(80)と二度リメイクしているし(ただし、『少女縄化粧』は時代設定を変えてのリメイク)、現在、確認できるものとしては、『のたうち』(66)、『絶品の悪女』(69)、『好色旅枕百人斬り』(73)、『聖処女縛り』(79)、『濡れ肌 刺青を縛る』(82)などが最愛のひとを奪われた者の復讐劇であることが分かっている。
また、代表作『(秘)湯の町 夜のひとで』(70)のラストは、大和屋竺のシナリオとは異なり、心身ともに衰弱した雀が獄中にいるエロ事師の夫・久生の幻を見ながら川原で死ぬというものであった。ここにも、幸せなときはもう二度と戻ってこないという悲しみがにじみ出ている。
後期の代表作『紅蓮華』(93)では、役所広司演じる建造が、母の死後、こんなセリフを口にする。
「お袋に死なれてみて、俺が、とんでもない、見果てぬ夢を、心に抱いていたことが分った。……(自嘲して)フッフ……それは、俺が、何代も続いた旧家としての中田家を、復興しよう等と、考えていた事だ」「そうして、少年時代の、黄金時代を、取り戻そう等と、考えていたことだ……」「本気で、そんな事を考えていたのか……タダ、夢の中に、無意識の中に、持っていたものか知らんが……そんな想いが、俺の中にくすぶり続けていた事は確かなようだ……」
沖島勲が書いたこのセリフに、自分がくりかえし表現してきた悲しみがはっきり出ているのを見て、渡辺は心を動かされたのではないだろうか。

ここに記した四つの仮説は、やはり仮説でしかない。
では、フィルムの大半が失われてしまった今、渡辺護がどんな映画監督だったかを知ることはもはや不可能なのだろうか。
いや、そうではないだろう。
監督デビュー作『あばずれ』は、渡辺自身もフィルムが残っていないとあきらめていたものであったが、2014年、神戸映画資料館が16mmプリントを発見している。まだどこかに渡辺の作品が眠っているかもしれないのだ。
渡辺護とピンク映画がどのような可能性を持っていたのかを探る作業はこれからと言っていいだろう。

(出典が記されていない渡辺護の発言はすべて渡辺護自伝的ドキュメンタリーとそのラッシュからの採録です)

 

<フィルモグラフィー>

渡辺護のフィルモグラフィーはこちらの二つをご覧下さい。

渡辺護 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0297430.htm

門前忍 http://www.jmdb.ne.jp/person/p0361530.htm