『紅蓮華』について(中矢名男人)

(以下の文章は2004年に書かれたものです)

さくら(秋吉久美子)がいとこの健造(役所広司)に求婚する冒頭から、健造が不可解な自爆死を遂げるラスト近くまで、この作品はさくらと健造それぞれの夫婦観、男女観、さらに進んで人間関係そのものに対する見方が齟齬を来たし、そして次第に相互浸透していく様を描き出す。ここで言う《見方》とは、文字通りの《見る》態度であり、視角であり、能力のことである。さくらは、健造は、2人の関係をどのように見ているのか。

さくらは(そして、その他の人物もまた)、関係とは人と人が存在するだけで成立するものだと考えている。それを担保するのが《家》であり、さくらに不幸な結婚を強いたのも家ならば、健造との新婚生活を支えるのも家である。家とは、その部屋に人が割り振られさえすれば、家族という関係を構成しうる場所であり、また関係を強制する組織でもある。さくらが健造に求婚した際に、何よりも新しい家を購入したことはその表れと言えるだろう。

ところが、健造にとっての《関係》はそれとは異なる。彼にとって自分を一方の項に含まない関係など、《関係》ではありえない。健造と誰かとの関係のみが《関係》なのである。健造とさくら、健造と洋子(武田久美子)、健造と弟・勇造(倉崎青児)・・・さくらとの新居に愛人である洋子を平然と住まわせることが出来るのも、結婚した洋子と勇造の家に侵入することが出来るのも、こうした見方の帰結と言える。健造には、他人と他人の関係———それがたとえ、自分の知っている人物の間の関係であっても———を実感する意志もなければ、そもそも能力もない。そして、その不能ゆえに彼はさくらたちが依拠する《家》に対する批判者となる。妻の立場から愛人洋子の家からの排斥を訴えるさくらに対して、健造は冷淡である。さくらとの関係によって、洋子との関係を変化させなければならない根拠などどこにもない。もっとはっきりといえば、洋子との関係の方が時系列的には先行しているのであり、さくらこそが邪魔者であるとさえ言える。洋子と勇造の関係も同様であり、健造と洋子が逢引している間、家から追い出された状態でいる勇造と、偶然そこに通りかかったもう一人の邪魔者・さくらとが出会う場面は、寒々とした感触を残す名場面であると言えよう。

ところで、その場面でさくらは落涙する。当然それは、今まさに健造と洋子の関係が継続していることを知った驚き、悔しさなどからであろうが、ここで注目してみたいのは彼女は実際に2人を見てはいないということである。彼女は見ていない2人を《見る》。そして、観客もまた実際には2人を見ていないにも関わらず、2人を《見》てしまう。あるいは洋子がさくらと健造の新居に同居している時、洋子は健造の寝床に忍び込み情交に及ぶのであるが、これもまたさくらは見ていない。観客にも2人の情交は薄暗い蚊帳の中の出来事として提示され、ぼんやりとしか見えない。自分に見えるものであろうと見えないものであろうと、人と人がいれば関係が成立する。むしろ2人の人間が見えないことが関係の証明となり、さくらを苦しめる。そして、その苦しみは健造にのみ共有されていない。

さて、さくらはこの苦しみの解消を目論み、洋子と勇造を夫婦にすることを提案する。洋子が若干の抵抗を見せるものの、2人は呆気なく結婚してしまう。人と人がいるだけで関係が成立するという《家》の原理が峻厳に作動したのである。2人の婚礼から自宅へ戻った健造は、さくらに「これから僕は君に触れることはないだろう」と告げる。勿論、この言葉は家から洋子を冷淡に排斥したさくらに対する怒りから生じたと考えるのが自然であろうが、同時に彼女や洋子・勇造をも支配している《家》の原理から逃れようという意志、あるいはそうした原理を実感できない不能を表明した言葉であるようにも思える。前述の通り、健造は2人の結婚後も洋子と関係を持ち続けるのであるが、ある日突然2人から家への訪問を拒絶される。このときの健造が示す異様なうろたえにも同じ意志と不能がうかがえる。さくらとは逆に、健造は目前に存在する2人を見ているにも関わらず、彼らが《関係》を持っていることを《見ようとしない》し、《見えない》のである。健造が繰り返す「小さな幸せが大嫌いだ」という言葉には、いつの間にか自分を取り囲むように生成していく《関係》への嫌悪、あるいはそれをもたらす《家》の原理への恐怖が込められていると見るべきであろう。

だが、健造にもその関係と重ね合わせることでしか関係を見出すことが出来ない基準が存在する。その基準とは、彼とその母・よしの(河内桃子)との関係であり、さくらや洋子たちとの関係も、そのヴァリアントに他ならない。そして、こうした関係を通して、健造と対になる人物たちもまた互いにヴァリアントになるのである。さくらと洋子を平然と同居させる健造の一見冷淡な態度も、彼女たちが等価であるからであろう。こうした関係の積み重ねはまた、健造と母の関係も単なるヴァリアントの一つへと変える。母もまた関係の対となる一人物に他ならない。そして、健造はさくらたちが依拠する《家》もこうしたプロセス———基準となる対関係と重ね合わせることで他の対関係を可視的なものとする/自分を中心として、対となる他者の配置を確定、固定化する/システムを完成させ、同時に基準となる対関係の特権性を消す———を経て成立したものであることを示すのである。さくらたちが《家》の原理にのっとって他者と他者にも容易に関係を見出すのに対し、健造はシステムを成立させている基準を看過することが出来ないのであり、それゆえに独善的、冷淡といった否定的なパーソナリティの持ち主であるかのように映るのである。だが、同時にこうした健造の資質はさくらたちにとって、また観客にとっても奇妙な魅惑として映るのも否定しがたい。

だが、この基準が健造にとって躓きの石となる。母・よしのが死んでしまうのである。その死は他の対関係に対して、母との関係が特権的であったことを健造に再度想起させてしまう。他の関係を支える位置にあった母との関係の喪失は、健造の関係のシステムに一種の恐慌をもたらす。これ以降の健造のイメージは、役所の演技力とも相俟って凄絶な印象を与える。単なる死者のイメージであるだけでなく、彼と関係を持つもの全てに死への危機を想起させずにはおかない死神のイメージとでも言うべきであろうか。健造は母の死を、さくらたちが依拠する一般的な関係のシステムへの移行=去勢の契機とするには年を取り過ぎていたのかもしれない。ボウリング場の屋上での健造の自殺未遂の挿話は、さくらとの関係が母との関係に置き換わるかどうかという健造の問いであろう。そして、この問いは当然、否定的な答えしか得られないであろう。その直後、健造は今や勇造との間に数人の子供をもうけた洋子のもとへ赴き、同じ問いを自分自身に投げかける。答えは当然、否であった。健造の進む道は決まる。基準となっていた対関係そのものを打ち消すしかない。遺された他者の視線にさらされて安易な関係を結べぬように、自分の死体すら残らぬ形で完全に消え去るしかない。健造はそれを行った。その身を焼き尽くす紅蓮の炎すら見えなくしてしまうような、燃えるような紅葉の中で。

作品解説リスト>紅蓮華